[62] 1年生になったらー♪ 2001-03-23 (Fri)

 もうすぐ新学期だ。
 初めて養成所や専門学校に通う人もいれば、二番目、三番目の養成所に通う人もいるだろう。

 初めて養成所に通う人は、なにはともあれ、床屋さんや美容院に出かけておこう。
 服をわざわざ新調することもないが、自分に似合っていて清潔な服ぐらいは揃えておく。
 唇ガサガサじゃみっともない。男子でもリップクリームぐらいは塗っておこう。
 爪を切る、ヒゲをそる、髪を整える、ハンカチとティッシュを持っておく、歯を磨いておく、前の晩か当日の朝にお風呂に入っておく。
 こんな当たり前のことであっても、出来ていない志望者はひじょうに多い。
 伸びてアカだらけの爪、ただの無精ヒゲ、口臭、汗臭い‥‥‥ 
 声優=俳優である。人並みの身だしなみぐらいは整えておいて当然である。

 教室に入る時間は早すぎず、遅すぎず。されど、遅刻は厳禁。
 初っ端から遅刻なんてみっともなさすぎる。この業界、遅刻は大罪だ。もし、学業や仕事の都合で遅れてしまうなら、きちんと連絡を済ませておくこと。
 無連絡で遅刻や欠席なんて、俳優・声優以前に人間的として問題がある。

 教室に入ると、緊張した仲間たちがいるはずだ。
 これが高校や中学だったら、不必要に目立ってはいけない。しかし、養成所や声優学校では違う。
 明るい笑顔で「おはようございます」と、みんなに挨拶しよう。
 もし、自分が一番乗りだったら後から入ってきた人たちに、やはり明るい笑顔で「おはようございます」と挨拶していく。

 席は、前のほうに座ろう。
 特に女子は、どんなに大きくても、なるべく前に。
 男で体格がいいのは、自主的に後ろに。
 講師は、前に座っている生徒を「向学心がある」と判断する。逆に、席が後ろから埋まっていくようだと「このクラスはやる気のない生徒ばかりだ」と判断することもある。
 恥ずかしがらずに、前に座ることが大事である。

 さて、席にも座った。クラスメートへの最初の挨拶も済んだ。
 みんなは、ここで「友達をつくらなくちゃ」と思うだろう。
 が、「妙に浮いてもいけない」とも思うだろう。
 大事なことは自然体である。気負ったり、かっこつけたりせずに、リラックスしていればいい。
 ただし、初対面の相手ばかりなのだから、話し掛けたり、話し掛けられたりした時は、笑顔を忘れてはいけない。
 もし、おしゃべりの相手を見つけたとしても、おしゃべりにばかり夢中になってはいけない。
 おもしろいもので、芝居が上手な人間には“たたずまい”というものがある。
 おどおどしているわけでもなければ、はしゃいでいるわけでもなく、かといって、かっこうをつけているわけでもない。自然体というやつだ。
 この自然体ができている同期がいるかどうか、しっかりとチェックしておこう。
 その人こそがライバル、または当座の目標というやつである。

 講師が入ってきた。挨拶をする。この時は、明るいのはもちろん、元気も大事だ。明るく元気よく挨拶をすることが、初心者が最初に覚えるべきことである。
 講師が簡単な自己紹介をすることもあるだろうし、心構えについての訓辞をしてくれることもある。この時は、講師の目を真剣に見つめて、うなずきながらしっかりと聞くこと。

 さて、ここで多くの場合は、自分自身の自己紹介がある。
 この時、絶対に恥ずかしがってはいけない。恥ずかしがるフリをして、カワイサをアピールしようというのも、すぐに見破られる。
 事前から準備しておけば、自己紹介は難しくもなんともない。
 年齢、出身や生まれ育った地域、今の立場(学生、社会人、フリーター)、声優を志した動機、どんな声優を目指すのか、長所と短所、特技や趣味などなど‥‥‥
 これらを1分バージョン、2分バージョン、3分バージョンで準備しておけば、焦らずに話すことができる。
 なお、特技や趣味には“地雷”もある。
 「特技は裁縫。コスづくりなら任せてください」
 「趣味はアニメ。最近、夢中なのは○○。○○のことならなんでも聞いてください」
 「趣味はコスプレ。夏コミでいっしょに△△のコスやってくれる人探してます」
 「趣味は同人誌。夏コミの原稿で、今、修羅場です」
 ここらへんは地雷だ。講師の印象はドッカーンと最低最悪になり、マイナス評定から始まる。
 講師=業界人である。業界人が最も嫌うのは、マニアでありミーハーである。
 自己紹介で最も大事なことは、明るく元気よく、大きな声でしっかりはっきりと話すことである。
 ボソボソしゃべっているとネクラな奴と思われ、舌っ足らずなキャンキャン声で喋っていると頭が悪い奴だと思われる。
 大きな声で、しっかりと、はっきりとしゃべるだけでも、講師から好印象をゲットできる。

 最初の講義は、講師の訓話、自己紹介などでほとんどが終わる。
 なにかやったとしても、何人かで終わりだ。
 が、もし、なにかをやると講師が言い出したら、率先して手を挙げてやらせてもらうべきである。
 なんでもそうだが、最初の人が失敗をするのは当たり前なのである。そして、講師もそれをわかっているから、最初の人にこそ、もっとも重要な指導=駄目出しをくれる。
 「誰かがやるのを待って、後からうまくやってやろう」なんていうセコい了見ではいけない。
 「失敗上等!」と、力いっぱい一所懸命にやってくれればいい。
 また、ここで叱られたりしても、めげてはいけない。ちょっとぐらいの怒鳴り声でビクビクオドオドメソメソするようなら、この先、何年にもわたる俳優修業などまっとうできるわけがないのだ。
 トコトン喰らいつくこと。叱られても、怒鳴られても、何度でも手を挙げ、頑張りに頑張りぬくこと。
 初めて芝居をするキミたちが、上手なわけがない。
 初心者は下手糞で当然。叱られ、怒鳴られながら、徐々にうまくなっていくだけのことである。
 また、ノートを1冊つくっておいて、自分への駄目出しばかりではなく、他人への駄目出しもメモしておこう。
 このメモは、キミが成長すればするほど、後になって絶対に役立つ。
 初心者のうちは、講師の指導の全てを理解できない。その時、その場では理解できなかったとしても、メモで残しておけば、理解できるだけの成長をした時に役立つのである。

 最初の講義は、あっという間に終わるはずだ。
 帰り道、教室のそばでタムロしていてはいけない。通行人の迷惑となり、自分の養成所や学校の評判を落としてしまう。
 もし、気が合う人を見つけたら、いっしょにお茶にでもいけばいい。
 ここらへんは臨機応変、テキトーに。
 お茶会に絶対に参加しなくてはいけないわけではないし、自分の予定や都合を曲げてまでおつきあいをすることもない。養成所や声優学校は、お友達づくりの場ではないのだ。自分というものをしっかりと持ってほしい。
 お茶会に参加したとしても、自分の意志でキリのいいところで切り上げればいい。大学のサークルのコンパではないのだ。ここらへんは自分自身で判断するように。

 家に帰る。気分的にヘトヘトになっている人もいるだろうし、逆に目が冴えてしかたがない人もいるだろう。
 もし、練習方法を教わっているなら、練習をすればいい。
 教科書にある発声交錯表や外郎売りを覚えるのもいいだろう。
 勉強・修業で大事なことは、予習ではなく復習である。何度も何度も繰り返して練習しなければ身に付かないことというものがある。どんな時も復習を忘れないように。

 最後に、キミたちに提案がある。
 俳優修業の記念すべき第一歩を記した日から、「修業日記」をつけてみよう。
 これは練習や稽古をした日、授業・講義を受けた日、演劇書や戯曲を読んだ日、お芝居を観に行った日にだけつければいい。
 将来、自分がどんな稽古をしてきたか、どんな講義を受けてきたか、どんな演劇書や戯曲を読んできたか、どんなお芝居を観てきたか‥‥‥は、とても重要なことである。
 日記だから毎日つけるのではなく、修業だからこそ毎日つけるのだということを忘れないように。

 みんな、がんばってくれ。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

☆73600アクセス突破! さんきゅ♪

☆去年の今ごろも、同じようなことを書いた気がするなあ(笑)。

☆特選かっぱえびせんはうまい! エビ4倍と謳うだけあって、ちゃんとエビの味がする。チョコベビーの新製品、プリンベビーもなかなか! ちゃんとプリンっぽい味がする(笑)。


[61] 進路指導は疲れるねえ 2001-03-10 (Sat)

 養成所・声優学校の卒業シーズンだ。
 養成所ではジュニアとして残れるかどうかの瀬戸際、声優学校では次の進路のことで一喜一憂している。
 進路指導する身としては、色々と忙しい時期でもある。
 バンタン電脳情報学院声優科は、ほとんどが収まるべきところに収まった、という感じだ。附属養成所に合格しながらも浪人を選んだ者もいるが、上等といったところであろう。
 勝田声優学院の進路指導は、今年はひじょうに楽だった。今年卒業する17期で、私が面倒を見るべきなのはたったの3人。1人は附属養成所へ、2人は基礎を高めるべくあえて浪人。まあ、順当な線である。

 本来であれば、私は浪人を勧めない。
 ほとんどの場合、浪人中にモチベーションが下がってあきらめることが多いからだ。
 また、マスコミ仕事をやるにあたって、年齢というファクターはひじょうに重要な価値を持つ。
 たった1年、されど1年。時間の貴重さには計り知れないものがある。
 しかし、本人がしっかりしているならば、問題は別だ。
 今年も、浪人を勧めたわけではない。本人が浪人はどうかと考え、個別面談して決意と覚悟、そして計画性を確認してから承諾をした。(もっとも反対したからといって、浪人する奴は浪人するのだが)
 浪人を承諾する場合、ケースはいくつかしかない。
 ひとつは身体的事情。持病があるとか、故障を抱えている場合には、治療に専念することを第一にして許可する。
 ひとつは経済的事情。これはもう、なんともしようがない。そんなことがないように、勝田の場合は1年目から「しっかり貯金しておけよ」と言っているのだが、できなかったら、ハイ、それまでよ、だ。
 そして、最後は精神的な問題である。

 今夜も面談であった。
 彼女は自信がない、という。
 「芝居始めて3年やそこいらで自信を持たれては困るよ」と笑うと、「そういう意味じゃありません」と言う。じゃあ、どんな意味かと問えば、「努力して向上させねばならない点はわかっているが、努力を出来る自信がない」と。
 これでは話にならないので、いっしょに1年めからをじっくりとトレースしてみた。
 芝居を始めたばかりの頃は、誰でも色んな意味で無我夢中だ。
 効果とか合理性なんてものとは無縁で、しっちゃかめっちゃかになりながら頑張る。また、それが楽しい。努力している自分というヒロイズムに酔う。1年めはそうでなければならない。
 だが、2年めぐらいから、トーンダウンしてくる。ある種の慣れが生まれてきて、頭では「やらなくちゃいけない」とわかっていながらも、いざ、実行となると周囲を眺めてしまう。周囲がやっていなければ、自分で勝手に「やらなくてもいいかな」と思い始める。
 また、トーンダウンを加速させるムードといったものも、周囲に蔓延してくる。なまじ知恵がついてきているものだから、やらなくてもいい言い訳をつくりはじめるようになるのだ。将来・未来のことではなく、目先のことをやるのに精一杯となってしまう。こうなると、日常的な努力をすることが、ひじょうに辛くなってくる。
 そして、3年め。ここで気を引き締めなおせるかどうかで、卒業時の進路は変わる。
 春に気を引き締められれば、3年めの1年間は極めて濃いものとなる。そりゃ、そうだ。練習方法などは1年・2年で教わっているのだから、本人がその気にさえなれば、まだまだ向上の余地がある。
 夏までに気を引き締められなかった場合、あとは惰性でズルズルといく。周囲が受験するから自分も受験するといった以上の意識しかない。進路だっておざなりの産物でしかないから、次の養成所でも気を引き締められない。

 養成所への進路指導は、高校受験のように輪切りは出来ない。
 本人の経験、本人の年齢、本人が希望するマスコミ仕事の種類はもちろん、至っているレベルというものがある。
 厄介なのは、附属養成所の場合、そのプロダクションのカラーや要求であったり、附属養成所の目的やレッスン内容・システム、それら全てを含めた相性というものが問題になる。もはや、こうなると宝くじみたいなものだ。宝くじだからこそ買わねばわからないが、確実に残るのが無理なようでは生徒に勧めることはできない。
 だが、なによりも大事なことがひとつある。
 それは、本人の芝居への愛情ともいうべきものだ。
 実は‥‥ 昨夜も卒業生の面談をしている。
 その時も結論は同じだった。

 「芝居を一生やっていく気はあるの?」

 私は「23歳限界説」であったり、「8年やっても、どこのジュニアにもなれないようなら、冷静になって考えた方がいい」と広言している。
 それはあくまでもマスコミ仕事として、「声優をやりたい!」という希望を前提とした一般論だ。
 当の本人から、声優というマスコミ仕事だけにこだわらず、「芝居が好きなんです! 一生芝居をやっていきたいんです!」と言われたなら、説得する術はないと思っている。
 芝居が好きだというパッション、これだけは講師が教えるものではない。演技への愛、演劇への愛、これは本人の心のうちに燃えさかるものだ。
 真に演劇を愛してくれたなら、進路は無制限だ。年齢制限もタイムオーバーもへったくれもない。
 一生が修業であり、一生が役者人生というものである。

 結局、昨夜の卒業生も、今夜の生徒も、2人とも自分をより追い込んでみるかたちに収まった。
 最終的な結論を出すには、まだ、早い。
 演劇の喜びと悦び、そして、歓びを十分に知っているわけではないからね。

 今年4月から、勝田では安達ゼミが始まる。
 ここで私が1年をかけてわかってほしい領域がある。
 それは‥‥‥
 Fun Play,Enjoy Play,Play is Play
 ‥‥‥の精神である。
 これをわかってくれたならば、演劇人としての未来は無限大だ。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

☆72100アクセス突破! さんきゅ♪
☆今年の末から来年の今ごろは進路指導でモーレツに忙しいだろうなあ。あふぅ‥‥(涙)
 


[60] 一年坊主じゃいられない 2001-03-08 (Thu)

 3月4日に、バンタン電脳情報学院声優科の卒業公演を終えた。
 会場は恵比寿のエコー劇場。一年坊主たちの卒業公演にはもったいないくらいの良い場所だ。
 肝心の出来は、まあ、良かった。一年坊主のやった芝居としては。
 お客様の評判も上場だった。一年坊主のやった芝居としては。
 そう。あくまでも一年坊主としては、という注釈つきなのである。

 確かに、あいつらはよく頑張った。
 あいつらがどれだけ成長したかを知っているのは、他ならぬ講師である私たちだ。
 入学半年過ぎるまで、なかなかエチュードをやりたがらなかったダイスケ。
 本番当日の最終リハのギリギリまで私に駄目を出され続け、本番が一番いい出来だった。
 エモーションがなかなか見えてこなかったサッサ。
 「役の背骨」「意識の流れ」が見えてからは本番ギリギリまで成長し続けた。
 ショーコは、勢いはあるが自分に甘い性格が災いして成長が遅かった。
 本番数週間前まで三歩進んで二歩下がる状態だったが、集中が高まるにつれ、成長した。
 自分の枠内でしか芝居をしようとしなかったネコ。
 呼吸のコントロールから、役へ集中するようになってからは、ダイスケとのアンサンブルで成長した。
 自分の過去の感情を掘り起こすことは得意だが、役としての感情を喚起することが苦手だったウサコ。
 本番ギリギリまで私に駄目を出され続け、自分を捨てようという意識が高まるにつれ成長した。
 完全に納得しないと何も出来ず、悩んでばかりいたナナコ。
 本番当日の最終リハでは、かなり高い集中を掴み、自分では意識していなかった情動の昂ぶりに自分自身が驚いていた。

 今だからこそ、あえて言おう。
 彼ら彼女らは、本当に不器用で、かなりの劣等生だった。
 君塚さんに「人間じゃない」と言われるほどに身体能力が低かった。
 1年前の彼ら彼女らには、ダンスなんて夢のまた夢。立つこと・歩くこと・座ることから教わり、正しい腕立て伏せのフォームをやっていた。
 なのに、すぐに発声ができるようになりたいと気ばかりを焦らせ、ヴォイストレーナーの田中先生を困らせていたりもした。
 土井代表を始めとしたムーンライト幹部たちに滑舌を教わっているにも関わらず、自分たちの意識の低さからなかなか向上せず、私に大目玉を喰らっていたりもした。
 そんな彼ら彼女らが、一年坊主としてはまともな舞台を仕立て上げられたのは、君塚さんについていってくれたからであり、田中先生のじっくりと腰をすえた指導であり、ムーンライト幹部たちの滑舌があったからこそだ。

 そして、主任講師の私としては「一年坊主としては」で満足はしたくないし、させたくもないというのが本音である。
 どんなに評判が良かったとしても、あくまでも一年坊主なのだ。
 これから附属養成所に通う彼ら彼女らは、2年〜3年やってきた連中とガップリ四つに組んで、勝ち残らねばならない。
 附属養成所に行ってからは、もう、「一年坊主だから」なんて目では見てはもらえない。
 17期はもちろんのこと、16期より上の勝田卒業生とも張り合わねばならないし、また、勝たねばならない。

 そんな彼ら彼女らに一番大事なことは、なにかあったら、基礎を振り返れ、ということだ。
 自分のイメージする芝居がナカナカできない時。そんな時は、
「リラクゼーションはできているか?」
「ストーリー・ドラマ・キャラクタライゼーションといった解釈はきちんと通っているか?」
「自我から離れ、しっかりと役へ集中しているか?」
「発声に問題はないか?」
「滑舌は甘くなっていないか?」
「身体機能はフルに使えているか?」
 といった基礎的なことを振り返ればいい。
 元々、あいつらは不器用な劣等生だ。
 しかし、今はただの不器用な劣等生では、ない。
 講師陣から1年かけて叩き込まれた訓練の数々を思い出せば、いくらでも自主練習できるだけの能力を持っている。

 本番当日、私は芝居では泣かなかった。
 泣かされたのは彼ら彼女らの親たちに会った時だった。
 満面の笑顔の親は、まだ、良かった。
 顔面をぐしゃぐしゃにして泣き崩れた親が何人かいたのだ。
 「うちの子が‥‥ うちの子が‥‥ 本当にありがとうございます」と。
 これには、本当に胸を打たれてしまった。
 不覚にも私まで貰い泣きしてしまい、まともな話ができなくなってしまった。
 他ならぬ実の親が「変わった」と思ったのだ。
 あいつらは本当に変わったのである。
 これが紀元前から続く演劇というものの凄さだ。

 バンタン電脳情報学院声優科卒業生たちよ。
 いつも、胸を張れ。
 胸を張っていられるだけの努力を続けろ。
 胸を張れなくなった時は、自分にやましさがある時だ。
 やましさがなければ、人はいつも、明るい笑顔で胸を張り続けられる。
 いついかなる時も、胸を張っていられるような、そんな大人に、そんな演劇人になってほしい。
 それが私の一番の願いである。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

☆71900アクセス突破! さんきゅ♪
☆とゆーわけで、私のカラダはボロボロです。背中から腰にかけてが痛くて痛くて仕方がない。いやはや、もう、中古のオンボロといった感じですな(苦笑)。


[59] 離陸 2001-02-27 (Tue)

 バンタン電脳情報学院声優科卒業公演の目処がやっと立ってきた。
 本番は3月4日なのだが‥‥ いや、もう、タイヘンだったんだよね、これが。本番1ヶ月ちょっと前の2月初旬まで、シッチャカメッチャカだったのだ。なにしろ、芝居になっていない。覚えた台詞を口にするのが精一杯。観ていて楽しめるどころか、爆睡を誘うようなレベルだったのである。
 正直言って「失敗したかな、こりゃ」と思っていた。「待つ演出」を心がけるよう努力している私でも、いいかげん癇癪を起こしかねないレベルだったのだ。
 そんな状態を打破すべく、考えに考え抜いた挙句に到達したのは「個別撃破作戦」だった。

 最初の標的はダディ役のサッサとカオル役のダイスケ。
 とにもかくにも「心の動き」が見えないサッサを徹底的にマークしてNGを連発し、一言一句に至るまで解釈をチェックし、台詞がない時の「心の言葉」までをもチェックした。
 情動を表出するのが苦手なダイスケに対して、全身の動きから情動を出せと、何度でもNGを出した。
 サッサは一気に良くなった。最初がひどかったからね、サッサは。この2週間の急成長ぶりは、まるで1万年前の蓮が一気に咲いたような感じである。
 ダイスケは苦しみながらも、ちょっとずつ変わってきている。毎回、なんらかの変化を見せてくれるようになってきた。

 次の標的は、ネコとショーコ。
 このふたりの問題点は集中。自分のリズムでしか芝居しないネコを説得し続け、ショーコの強い自我を指摘し続けた。
 ネコは呼吸法からやり直した。意識の連続性の中で呼吸させていくうちに、自分でも何かつかみかけてきたようだ。
 ショーコはとにかく叱られた。ショーコの甘い考えがはがれると共に、徐々にアキラへと近づいてきている。ただし、ショーコは本番直前の今ごろになって風邪をひいて、またも大目玉を食らっていたりもするのだが。

 そして、今、最後の標的となっているのが、女主人役のナナコとミユキ役のウサコだ。
 このふたりは、細かいところはいいのだが、大きなところで弱い。全般的には平均点以上なのだが、いざ、舞台ということになると表現が小さい。
 ナナコは一番難しいところで踏ん張ってくれている。この調子でがんばってくれればいい。頭は良い子だから、自分自身が誰よりも納得できれば、ラストスパートまで良くなり続けるだろうと信じている。
 ウサコは、全てを一からやり直している。立ち姿から始まり一瞬の反応の一つ一つに至るまで、身体レベルで染み付いている自分を徹底的に検証している最中だ。自分がひとつ剥がれ落ちる度に、一歩ずつ前進している。

 舞台は主要登場人物のうち三分の一が変わると、全体が変わる。
 サッサとダイスケが変わり始めてから全体が変わり始めてきた。ネコとショーコが変わると、全体はまるっきり違うものになってきた。
 特に前半20分までのスピードは「これがお芝居1年生?」と言わせるに十分なものだ。
 そして、おもしろいもので、本人たちの「芝居脳」というものまでが一気に成長した。先週ぐらいから「開放と集中」に関する質問が続出し始めたのである。

 開放と集中‥‥‥
 演劇をやっている人間であれば知っていて当然のことであり、リアリズム演劇の基礎であり極地である。
 だが、この開放と集中を、知識ではなく意識できる人間はごくわずかだ。
 100人の俳優志望者がいても、真に意識できるのは20人もいないのが現実である。
 残りの80人は、開放や集中を聞きかじっただけで振り回していたり、または知識として振り回している程度でしかない。
 まあ、お芝居1年生では、まず、理解できない。理解できていると思い込んでいるだけだ。
 勝田全体を見回しても、開放と集中を正確に理解し、体感できているのは10人もいないだろう。
 だが、バンタンの子たちは、演劇用語としての開放や集中といった言葉を使わず、自分自身の生の言葉で「開放と集中」に関する質問を出してきた。
 これ、凄いことなんだよ、ホントに。
 誰が驚いたって、1年かけて指導してきた私自身が一番驚いた。

 思い返せば、私はバンタンでは「急がば回れ」をモットーにカリキュラムを組んだ。
 3〜5分くらいのエチュードを約半年間かけ、100本はやらせてきた。
 私としては、その間に演出のつかう「演出語」ともいうべきのアレコレであり、舞台における作法といったものをひとつひとつ教えていったつもりだ。
 そして、舞台公演のための練習が始まり‥‥‥ 正直言って、「こりゃ参った」と思った。
 エチュード百連発よりも、より実戦的な短い戯曲を5本ぐらいやらせた方が良かったかもしれないと、何度も後悔した。
 しかし、それは私の早とちりだったようである。
 なぜなら、短い戯曲の連発では「開放と集中」を意識できるレベルに達することは難しいからだ。
 バンタンの子たちのおかげで、私は本道を見直すことができたといえよう。
 彼ら彼女らの問いに、私は「観月法」「シー・ウォッチング」のふたつを指導することで答えた。開放の前にリラクゼーションがあるんだ、と。

 それにしても、おもしろいもんだよね。
 勝田生もそうだが、伸びる時というのは一瞬なのだ。
 それまで伸び悩んで、なかなか上昇しなかったものが、何かの機会に一気に急上昇する。
 まるで、長い長い滑走路みたいなものだ。
 なかなか離陸しないで、滑走路をズーッと走っていただけなのが、フワッと上昇を始めた瞬間から、一気に高空に向かって飛び立っていく。
 そして、その滑走路での加速がなかったら、なかなか飛び上がれずタイムオーバー=卒業となる。
 滑走路で加速も出来ず、ただ、ヨタヨタと歩いているうちにタイムオーバーとなってしまった生徒を、私は今までに何人見てきたことだろう。
 バンタンの子たちは間に合ってくれてよかったよ、ホントに。

 なんとか目鼻もついてきたように思えるので、私は今、こんな文章を書けている。
 さあ、本番まで、あと5日間。最後の追い込みが待っているぞ、と。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

☆70990アクセス突破! さんきゅ♪

☆バンタン声優科の卒業公演を観覧したいというメールを貰うんだけれど、残念ながらもうチケットはありません。約190枚のほとんどがはけてしまいました。ごめんなさい。(私の分もなかったりするんだよね)


[58] 全てが糧になる 2001-02-16 (Fri)

 今日も今日とて、バンタン電脳声優科は『タイフーン・カフェ』の稽古である。
 おかげささんで私はメチャクチャに忙しい。1年坊主ばかりのバンタンには舞台監督に相当する人間がいないから、なんでもかんでも、私がチェックしなくてはならない。チラシのデザイン・チェックから印刷会社への発注。大道具のデザインと設計、部材の搬入から製作。音響もチェックしなくちゃならんし、照明の打ち合わせはまだやってないし、もう、てんてこ舞いである。
 おかげさんで最近は、しょっちゅう頭が飽和状態に陥る。炭酸が頭を抜けていくように、脳天からシュワーと意識が抜けていってしまうのである。夜ともなると、炭酸が抜けたソーダのようになって、反応が愚鈍の域に達する。
 全身タイツで「オーオーオッホオッホ!」とゴリラダンスをやれば許されるというのであれば、迷うことなくやってしまうであろう。(このネタがわかる奴は三十代)

 しかし、稽古そのものは楽しい。稽古の合間合間に、さまざまな訓練メニューをはさんでいるからだ。
 先日は、マスクをかぶらせ、無言でシーンをやらせてみた。
 これは台詞ナシで全身で意味を通じさせるには、どれほどのミザンスが必要になるかを思い知らせるためである。
 日本の俳優はおしなべてミザンスが苦手だ。そりゃそうである。日本人の日常会話には、身振り手振りが極めて少ない。日常から動きが少ないのに、舞台では無理して動こうとするから、無意味な動きを連発してしまう。
 身体は「喋る」のである。
 表情も視線も身体の内であり、舞台では一瞬の視線から指先1本の動きにいたるまで、全てが演技であり表現なのだ。

 世の中には「声優になりたいのだから、舞台は関係ない」と思い込んでいる志望者がひじょうに多い。
 とーんでもないっ! 声優の仕事にのみ限っても、舞台における全身表現は基礎中の基礎となる。
 たとえば、アニメ・アフレコであっても、コンテマンや作画マンは、目線の動きや指先の動きでキャラクターの感情を表現することもある。声優は、そのカットに台詞がなかったとしても、アドリブで息遣いを入れることは珍しいことでもなんでもないのだ。
 そして、声優自身が全身表現を理解していなかったら、絵における指先の「語り」なんてものを理解することはできないのである。
 これが外画アテレコともなると、もっと複雑になる。一瞬のまばたきから始まり、小鼻の膨らみ、耳の紅潮、指先の震え‥‥ありとあらゆる外国人俳優の演技を理解した上で、声をのせていかなくてはならない。
 「舞台なんか知りませーん」「全身演技なんてわかりませーん」なんてレベルでは、外画アテレコなんてものは絶対にできないのである。
日本のテレビ・タレントと、外国のテレビ俳優を同じレベルだと思ってはいけない。スタニスラフスキー・システムなんて基礎中の基礎、メソッドをバリバリにやって、日本でならダンサー面できるほどのタップダンスやジャズダンスの技術は「たしなみ」程度のものでしかない訓練を積み重ねているのが、外国のテレビ俳優なのである。ましてや、映画俳優ともなれば、テレビ俳優を遥かに凌駕するだけの実力派揃いだ。それだけの演技者を吹き替えるのだから、声優にもそれなり以上のレベルというものが求められるのが、外画アテレコの世界なのである。

 話を戻すが、なんと、ミザンスが苦手な俳優志望者の多いことか。
 「ミザンスは演出が考えてくれるもの。俳優は演出に言われたとおり動いていればいい」と思い込んでいる者までいる。
 これじゃ、自律型プログラムを備えているAIBOよりもレベルが低いね。シンバルをシャンシャン叩き、歯をむき出して「キーキー!」と唸るサルのおもちゃレベルである。
 全ての台詞に意思と意志があるがごとく、全てのミザンスにも意思と意志があるのだ。
 役者から提案をしない限りは、台詞ひとつミザンスひとつとっても、演技とは呼べないのである。演出からの注文を待っているようでは、役者とは呼べないのだ。
 立ち姿、呼吸、眼球の動き‥‥どれひとつとっても、役に生きた上に誕生する演技表現なのである。

 ってなわけで、今日は、パントマイムの初歩中の初歩を稽古の最後にはさみこんでみた。マイムなんていったら、マイミストに叱られてしまうようなレベルではあるが、マイムにおける姿勢制御・重心移動の基礎と、「壁マイム」をちょっぴりだが教えてみたのである。
 その時、おもしろいことが起きた。姿勢制御の最中に、いっしょにいたスポーツ・コーチの植草さんが「ああ、それってクラシック・バレエの基本だよ。ダンス・レッスンで教えてるはずだけど、なんで、できないの?」と。植草さんは苦笑、生徒たち真っ青、私は大爆笑。これだから、演劇っておもしろいんだよね。ありとあらゆる表現が勉強になり、演技へと応用できる。
 帰り道、電車の中でウサコと話した。
「俺はね、みんなが全てのレッスンを、そして、日常のどんな些細なことであっても、演技の糧にできるような、そんな柔軟性のある俳優になってほしいんだよ」と。
 日常生活の全てから始まり、ありとあらゆるレッスンを演技表現の糧にすること。それができたなら、俳優修行はより楽しいものになるんだけどなあ。

 しかし、それにしても、こんな調子で本番は大丈夫なのだろうか?
 なんとかしてしまうのが、演出の技量でもあるんだけどね。
 ってなわけで、誕生日は合宿、バレンタイン・デーまで稽古だったという不幸な演出の毎日は、まだまだ続くのであった。


[57] おやぢぃ! 2001-02-12 (Mon)

 先日、よりによって合宿期間中に誕生日を迎えてしまった。
 三十路も半ばともなると誕生日に感慨などなくなるのだが、それにしても、合宿ってのはないよなあ。
 パーティーしたいとまでは思わないが、青年の家の質素なゴハンにアルコール抜きはさすがに淋しかった。

 「最近、肩こりはどうですか?」と聞かれる。雑記帳で「肩こった」と騒がなくなったからかな?
 ご安心を。ちゃーんと肩こりバリバリです。1週間に一度は肩こりからくる頭痛にも悩まされています。
 童顔のため、服装によっては、まだ二十代半ばで通る私だが、いたるところに老化現象は現れてきている。
 たとえば、「あー、アレだよ、アレ」。
 出てこないんだよなあ、単語がすぐに。
 いやだなあ、このまんま、言語不明瞭オヤヂになるのは。「アレをナニしといて」とかさあ。
 もっとわかりやすい老化といえば、若いアイドルの顔がゼーンブ同じに見えてしまうこと。
 正直に言います。私はモーニング娘。をゴトーマキしかわかりません。
 もー、なにがなんだか、わからないんだよ。どのコもゼーンブ同じにしか見えない。
 プッチモニがデビューしたばかりの時なんて、「はぁ? プッチーニ? オペラでも唄うアイドルか?」と本気で思ってしまったほどだ。
 ゴトーマキだって、妹君や生徒たちの暖かいご指導ご鞭撻がなければ、今でもわからなかっただろう。
 その昔、親たちがピンクレディーやキャンディーズがわからないなどと言っていると、
 「これだからオヂオヴァは」などと苦笑していたものだが、まさか、自分がそんなオヂオヴァになろうおいとは思いもよらなんだ。
 生徒たちとカラオケに行こうものなら、もう散々である。
 自慢じゃないが、私はカラオケがうまい。腹式呼吸バンバンつかって、共鳴を駆使して唄い倒す。
 問題は‥‥ 私の唄う歌が古いということだ。
 だって、私の生徒には、1980年代生まれがゴロゴロいるんだよ。
 私が高校生の頃に流行っていた歌なんて知っているわけがない。
 私にしてみれば最近の曲を唄っていると、「あ、それ、幼稚園の頃に流行ってましたー! ナッツカシー!」などとムジャキに言われてしまう。
 しかも、最近の曲を仕入れないものだから、いつ行っても同じ曲ばかり唄ってしまうことになるという悪循環。
 ヒトはこうしてオヂオヴァになっていくのだなあ。こりゃ1ヶ月に1曲のノルマで、新曲を覚えたほうがいいのだろうか。
 また、時には「えー、ホントですかー」といわれてしまうことさえもある。
 「俺が高校生の頃は、ビデオはベータとVHSの2種類あって‥‥」
 「ホントですかー。デジタルビデオなら知ってるけどー」
 しかも、私が最初に持っていたビデオは失われたベータなんだから、悲しみもひとしおである。
 そういや、こないだ、このパターンでVHDのハナシをした時は笑えた。
 「DVDプレイヤー欲しいなあ。でもなあ、ウチにはレーザーディスクもあるからなあ」
 「へー、レーザーディスク持ってるんですか? 珍しいですね」
 「珍しくないだろ、レーザーは。VHDならともかく」
 「へ? VHD? なんですか、それ?」
 「そうか、VHDを知らないのか。VHDってのは、レーザーディスクの対抗として生まれたビデオディスクでな。
  そうだな、形状はB4サイズのフロッピーディスクみたいなもんだよ」
 「び、B4? ウソでしょー!」
 「ホントだ、バーロー! そのでっかいVHDをだな、ケースごとガシャコンと本体に挿入するんだよ」
 「し、信じられませんよー」
 「片面で1時間だから、2時間の映画だったら、ガシャコンを2回繰り返すんだ。
  3時間だったら3回ガシャコン、4時間だったら4回ガシャコンするんだよ。
  VHDカラオケなんてのもあってな、ホステスさんが1曲ごとにガシャコンを繰り返していたもんだ。
  15年前、登場したばかりの頃のVHDは次世代メディアなんていわれていたんだよな。
  あの頃としては驚異的な数百メガバイトの記憶容量があったからね。
  3年もたたないうちにレーザーディスクがデジタル音声を武器に圧倒的勝利を収め、
  その後、VHDの技術はMOに発展したんじゃなかったかな?」
 「へー。ところでレーザーディスクはどうするんですか?」
 はうっ! そうなんだよなあ、レーザーディスクもなあ、処分できないんだよなあ。
 貯金はたいて買った『傷だらけの天使』全話ボックスとか、秘蔵の『新日本プロレス25年史』とか『初代タイガーマスク伝説』とかのボックスがなあ。
 デジタル時代になって、ハードや規格がドンドン進化していくから、オヂサンには辛い時代なのである。
 どこまでついていけるんだろうねえ。
 はぁ‥‥ずずず‥‥(渋茶をすする音)。

************************************
☆69200アクセス突破! さんきゅ♪


[56] 演技を提案してこそ役者 2001-01-23 (Tue)

 今、勝田声優学院選抜チームYoung! Young!とバンタン電能情報学院声優科では、同じ台本『タイフーン・カフェ』をつかって練習している。『タイフーン』の作者は、ガイスターズでもごいっしょしている井上さん。Young! Young!の発表は1月24日、バンタンの発表は3月4日だ。
 が、生徒たちに台本を渡したのは、ほぼ同じ。Young! Young!は実質3ヶ月弱で、バンタンは4ヶ月で仕上げる。最初は夏休み明けに完成予定だったのだが、大幅に遅れて11月に完成した。井上さんが〆切り破りしたわけでもなければ、遅筆だったわけでもない。演出である私が書き直しを5回命じたのである。
 まあ、生徒たちにしてみると、かなり焦ったようなのだが‥‥‥
 3年生と2年生混合のYoung! Young!と、1年生しかいないバンタン電脳声優科。1ヶ月のハンデでちょうどいいだろうと思っている。
 時間がなくたって、Young! Young!の連中なら仕上げられなくてはいけないし、
 1年坊主ばかりだとしても、バンタンの連中は仕上げられるようにならなくてはいけない。

 ところがこの切迫した状況下、バンタン電脳声優科の意気がナカナカ上がらない。
 先週の授業では、欠席だの体調不良で、芝居ができるコンディションにある生徒は計4人しかいなかった。『タイフーン』のキャストは計6人。こんなのじゃ稽古にならないと、急遽、Young! Young!の連中を呼び出したぐらいである。
 そして、今週。先週のことがあったから、最初からちしゃ猫とウリボーを助っ人に呼んで準備しておいた。
 1回目と2回目の通しでは、ウリボーが入った。最後の3回目の通しで、ウリボーとちしゃ猫の2人を入れてみたところ‥‥‥ 変わる、変わる。一気にバンタン生たちの芝居が変わった。
 作品全体のテンポやリズムはもちろんのこと、各役の集中力、そして、情動がくっきりと浮かび上がってきた。

 そして、ダメ出し。
「今日、やりやすかっただろ? 今まで気付かなかった気持ちがいっぱいあるってのがわかっただろ? それはなんでだと思う?
 助っ人の2人が、“役の気持ち”を濃く強く大きく出してくれたからだよ。つまり、助っ人2人の提案によって、バンタンのみんなもノッていったんだ。
 演技ってのは、役者からの“提案”なんだよ。お芝居ってのは提案の集合体として成り立つんだ。役者同士が演技を提案をしあうことによって、自分ひとりでは見えなかったキャラクターやストーリー、ドラマやテーマが見えてくるようになるんだよ。
 これこそが真のコラボレーションであり、アンサンブル演劇というものなんだよ。
 みんな、提案をしなくちゃ駄目だよ。その提案が大正解かどうかは、板の上に乗せてみなくちゃわからないんだ。演出ってのは、役者からの提案を審判するだけなの。役者の演技という提案がセーフか、アウトかの審判役が演出なんだよ。役者から提案がなかったら、作品なんか成立しないんだよ。
 稽古の最中は、いくらでも失敗していいんだって。ってゆーか、稽古で失敗しておかないでどうすんのさ。本番で失敗したくなければ、稽古でありとあらゆる失敗をすればいいんだよ。初めての失敗は避けようがなくても、一度やってしまった失敗なら避けられるだろ? 演劇の数カ月にわたる稽古ってのは、失敗をしつくすためにあるんだ」

 さてさて‥‥
 Young! Young!の発表は、ついに明日。泣いても笑っても、今日の稽古限りで本番を迎える。あとは思いっきりやればいいだけ。
 バンタン電脳声優科の連中は来週から、レクリエーションなんか一切ない4泊5日のガチンコ合宿だ。午前中はダンス漬け、午後に『タイフーン』3連チャン通し、夕食後に『タイフーン』2連チャン通し、合計5回通し×4日=20回通しをやってもらうぞ。たった4日間で20回通しは半端じゃないぞぉ〜! ガハハハハハハ!

 今回、思ったこと。
 やっぱ役者は舞台で育てなくちゃ駄目だね。
 講師としても舞台でなければ教えられないことがあるし、役者にしても舞台でなければ実感できないことが山ほどある。
 今回は、Young! Young!もバンタン生たちもスタニスラフスキー・システムにおける『輪の関係』がよくわかったことだろう。
 ただ、わかったことと演技として実現することは違うのが、辛く、苦しく、そして愉快なんだけれどもね。ウワハハハハ!

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

☆66200アクセス突破! さんきゅ♪

☆雑記帳復旧に多くの方の御協力をいただき、まことにありがとうございました。後ほど、改めて私の方からも感謝メールをお送りしたいと思います。重ね重ねもありがとうございました。


[55] 2001年 池袋ラーメンの旅 2001-01-16(Tue)

 寒いと、わけもなく物悲しくなってくる。しかも、お腹が好いていると最悪だ。
「さむいなー、ハラへったなー‥‥死のうかなあ」とまでなる。
おおげさじゃないんだって。人間、寒さと飢えのダブルパンチを喰らうと、かなりこたえるものなんだよお。
『じゃりん子チエ』のおばあはんは「人間、寒い、ひもじい、もう死にたいとなりますんや。そういう時は、まず、腹ごしらえせなあきまへん」
 という名言を残している。

というわけで、身も心も凍えてしまった夜の友、それはラーメンだ。蕎麦でもないし、牛丼でもない。ラーメンでなければいけないのだったら、いけないのである。
立ち食い蕎麦は午前中までに食べるものだ。午後のパワーを補うには物足りない。ただし、風邪気味の時は長ネギを大量摂取する手段として許される。
牛丼はオールマイティーすぎる。どこで、いつ食べてもダイジョーブな安心感がいけない。夜の食べ物には、うなぎパイのごときキケンな秘め事がなければいけないのである。(ちなみに私は吉野屋派なのだが、作曲家の川井さんは違う。一口に牛丼といっても、奥深き世界があるのだ)

 さて、ここ数年、私が拠点とする池袋では、ラーメン屋が激戦を繰り広げている。
元々、池袋には超有名店・大勝軒がある。その他、20年前までは札幌ラーメンの長谷川も有名で(今はダメダメ)、リーズナブルな店としては福しんや一番館があった。地域的には、ラーメン偏差値50〜55ぐらいが池袋だったのである。
それがここ数年の開店ラッシュで、ラーメン偏差値が一気に10ぐらい上 がったのだ。
というわけで、安達が選定する池袋ラーメン・ランキングをいきなりやってしまおう。(ラーメン界のカール・ゴッチである大勝軒は考査にいれない)

第1位/えるびす
 すきとおっていながら、こくのあるスープに、とろりチャーシュー。麺
もなかなか。味が不安定な時もあるが、これは化学調味料バリバリではな
い証拠だ。私のイチオシ池袋ラーメンである。たったひとつの欠点、それ
は店内禁煙(笑)。

第2位/東京とんこつラーメン・ふく屯
 店の名前に自信がない。しっかりとしていながら、脂っこくないスー
プ。九州とんこつよりもさっぱりしている。並も大盛りも同じ値段という
心意気が嬉しい。近所の予備校生たちで店はいつも満員。隣がオトナのオ
モチャ屋なのは御愛嬌。

第3位/光麺
 うまいことはうまいし、具もいいのだが、あれだけ並ぶようになっちゃ
ねぇ。寒空の下、立って並んでまで食べようとは思わない。こってりぎと
ぎとスープは賛否両論だろう。ここの天下無敵プリンと史上最強アンニン
豆腐が好き。

第4位/桂花
 新宿の名店が池袋に進出。すっげー有名な店なので、詳しいことは書か
ない。好き嫌いが別れる九州とんこつなのだが、私は好きだな。大盛りや
替え玉がないので減点。

第5位/流星ラーメン
 ここの“男塩ラーメン”が気にいってる。大盛りは気合いが入ってるぜ
いっ! 押忍! 西口のアブナイ場所にあるので、女性客はほとんどいな
い。この店を探しているうちに行方不明になった人は、10人はくだらない
のではなかろうか。それにしても、流星だの男だの、ネーミングが変わっ
た店である。

第6位/無敵屋
 開店当初は空いていたのだが、今はすぐ近くにある光麺の余波で満員。
こってりぎとぎとスープ。具がド迫力。盛りもいいので、腹ごたえあり。
ちなみに、この無敵屋が開く前に同じ場所でやっていたラーメン屋は、海
の家なみに不味かったのを、私は生涯忘れないだろう。

第7位/梅太郎ラーメン
 駅からやや外れたところにあるが、オーソドックスなスープと麺のバラ
ンスがグッド。こーゆーシンプルなラーメンをちゃんとつくることこそ
が、実はいちばん難しいのではないだろうか。全品、レベルが高いのだ
が、油を一切抜いたダイエットラーメンは涙が出るほどにまずい。

第8位/味源
 北海道ラーメン系のチェーン店だが、チェーン店とは思えないほどにレ
ベルが高い。私には、ちょっと味が濃すぎるかな。ここの“でっかいどう
ラーメン”は、麺が3倍というツワモノ。旭川塩ラーメンが私のお気に入
り。

第9位/こむらさき
 九州とんこつラーメン。かなりレベルが高いのだが、たまーにスープが
ぬるい。それで減点。しかし、10位のばんからと比べると、辛子高菜を別
料金にしていないところがよい。

第10位/ばんからラーメン
 九州とんこつラーメンなのだが、こってり感が弱い。それなり以上の味
なのだが、替え玉が200円だの、辛子高菜が120円だのとセコいので順位を
下げた。

■張り出し大関/X(特に名を秘す)
 この店には、私が幼稚園の頃から行っているのだが、恐ろしいほどにラ
ーメンがまずい。しかし、それを補ってあまりあるほど、餃子がうまい。
 その他の料理も最悪で、野菜炒めなのにタマネギ炒めが出てくるような
店なのだが、それを補ってあまりあるほど餃子がうまい。
 こんなにうまい餃子をつくれる舌なのに、ラーメンはどうして駄目なの
だろうか? 呪いか祟りのどちらかに違いあるまい。または親の遺言か。

 寒い冬の日の夜、池袋にお立ち寄りの際は、ぜひ、探して食してみてください。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

☆65185アクセス突破! さんきゅ♪


[54] 合作アニメは難しいにゃあ 2001-01-14(Sun)

 日韓合作アニメ『GEISTERS』の放送が韓国で始まった。在韓サーバーのGEISTERSホームページには掲示板があり、放送以来、2000件を超す感想が書き込まれている。
で、その中には「なぜ、韓国のアニメなのに、日本人の名があるのか」「日本人の名が多く出ており失望した」といった意見がある。
 その中でも、特に強烈なのは「シナリオは作品の脳なのに、なぜ、日本人に書かせるか」というものがある。
うーむ。私はあんまり日本人だの韓国人だの考えない方だから困っちまいましたぜい。
だって、私や井上さんの武器であるところのストーリー・アナリシスなんて、ハリウッドからの輸入品みたいなものなんだから。国境だの人種だのなんだの言っていたら、ユダヤの血を引くMr.バーニーに笑われちゃうよ。

 私は基本的に、エンタテイメントに国境はないと思っている。
そりゃ、文化差異はある。
だけど、人間が怒り、笑い、泣き……といった根源的な情動について、 国境はない。
肌の色も、髪の毛の色も、瞳の色も、人間の情動の前には一切変わりはない。
我々日本人が失いつつある愛国心が、韓国の人々は旺盛なのだろう、とは思う。
それにしても、それにしてもなんだよねえ。ふぅ。
韓国製作サイドの見解であるところの「設定は全て韓国がつくった」「シリーズ構成も全て韓国がつくった」というのには、さすがに気が抜けてしまう。
ん〜。でも、いいんだ、いいんだ。だって、わかる人にはわかってるからね。

 今回の韓国側の見解について、井上さんはそれなりに困っているようだ。うん…… そりゃ悲しいよなあ。
 でも、私はけっこうタフというか、無神経だったりもするんだな。だって、こういう結果になるのは、可能性として考えていたからね。
 それに全26話のシナリオを納品してある今となっては、事実上、過去の作品でもあるし。
 普通なら、ここで「韓国とは二度と仕事しない」とか「合作はカンベンしてくれ」となるんだろうが、私はそんな風には思っていない。
「合作? いいっすよ。また、やりましょう。ただし! 今度は完全に同じ土俵に上がりましょうね。日本だろうが韓国だろうが、優秀なクリエイターは優秀だ。真剣勝負で最高におもしろい作品をいっしょにつくりあげましょうや」と。

 『GEISTERS』って、韓国ではけっこう人気というか、話題になっているんだよね。
 いつの日か韓国に行った時、「アンヨンハセヨー、GEISTERSのシリーズ構成やった安達でーす」と言ったら、熱烈歓迎してもらいたいしー(笑)。
 それに、あと10年も経ったら、「GEISTERSを観てましたー!」って韓国の若いクリエイターに出会えるかもしれないじゃん。
 私は、そんな未来のことの方が楽しみだぞ。
 私が書いたシナリオに、なにかしらの影響を受けたり、心の奥底に感じるものがあって、自分もクリエイターになりたいと思うようになった若者と出会う方がいいじゃん!
 その時はマッコリで乾杯して、骨付きカルビを貪り食うのである。
「食いねえ、食いねえ、焼き肉食いねえ! おう、ソウルっ子だってねえ。ガイスターズのどこが好きだい? 音楽? うん! 川井さんの音楽は素晴らしいよ! 美術も凄いよねえ。……ところで大切なこと、忘れちゃあいねぇかい? 肝心要のストーリーは?」
 きれいごとに思われるかもしれないけれど、マジ、そう思っているよ。
 クリエイターがきれいごとのひとつやふたつ、言い切れなくてどうすんのさ。

 まぁ、そんなこんなで、私は韓国におけるガイスターズ騒動については、もう知らない。完全にノーコメント。誰に問われても見解なんざ述べません。
 向こうには向こうの事情がある。
 私の知らないところで、苦しんだり、辛い思いをしているスタッフが存在していることは間違いないのである。
 芸術作品なら、利益度外視でなんでもできるけれども、商業作品には経済面の事情はもちろんのこと、時には政治的な問題だって含むこともあるんだから。
 たとえ、こちらに言い分があろうとも、今、それを言ってしまったならば、向こう側のスタッフに不利益を与えてしまうこともあるかもしれない。
 そんなこと、できるわけないじゃん。
 たとえ、一度も会ってなくたって、国境を越えて『GEISTERS』を一緒につくった仲間である。仲間を売るようなマネ、できるわけがないっちゅーの。
 誇り高き韓国スタッフだって、苦しんでいると思うよ。

 私にとっての最大の問題は、日本だろうが韓国だろうが、放送された時におもしろいかどうかなんだから←ギュウ!(自分で自分の首を絞めた音)。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

★64944アクセス突破! さんきゅ♪

★無断複製サイトの件ですが、当該サイト制作者より丁寧な謝罪メールをいただきました。よって、この件については全て終了。雑記帳にアップしていた「顛末記」も削除しました。お騒がせしましたね。(^^;


[53] キャラクター演技 2001-01-02(Tue)

 年末に桜塾の2000年最後の講義と、その後のクリスマス・パーティーに参加させていただいた。
 いやぁ、咲良さんという指導者は、やっぱり凄いよなぁ。とにもかくにも待つ。私も講師としては待つ方ではあるが、性根が短気の癇癪持ちだから、咲良さんほどは待てない。
 咲良さんは「私はアクターズ・ステューディオでそういう育てられ方をしたから、このやり方しか知らないのよ」というが、いやはや大したことです。
 私はどうしても現場レベルで物事を考えてしまうから、辛抱しきれずに「助け舟」を出してしまう。
 たとえば、あの日、桜塾の生徒たちに出したかった「助け舟」はこうだ。

 お芝居を始めて最初の数年は、「らしさ」でどうにかなるし、本人もそれでイイと思いこみがちだ。
 乱暴者の役なら、乱暴者らしくやれればイイ……
 召使いの役なら、召使いらしくやれればイイ……
 お嬢様の役なら、お嬢様らしくやれればイイ……
 これらはいわば『キャラクター芝居』というやつで、プロの演技では『カラオケ芝居』としてバカにされる。
 純粋な演劇の勉強過程においては、キャラクター芝居は否定されねばならない。
 しかし、作品を成立させるためには、キャラクター芝居もできなければならない。
 そして、俳優として目指すべきキャラクター芝居とは、次のようなものである。

 たとえば、台詞がほとんどない端役が、ストーリーの展開上、または台詞から解釈するに乱暴者だった場合、乱暴者というキャラクターを演ずる必要がある。
 ここで演劇初心者がやりがちな失敗は、ただただ乱暴な言葉遣いをしたり、それらしい表情をつくるだけで乱暴者が表現できると思うことだ。
 これは、コロッケがモノマネをする美川憲一をモノマネするようなものである。本人は美川憲一のつもりだろうが、コロッケのモノマネのモノマネと、美川憲一のモノマネは似て非なるものなのだ。
 大事なことは、乱暴者が乱暴者と呼ばれる振る舞いをするのはなぜか、ということ。
 乱暴者と呼ばれる人間のほとんどは、喧嘩が強い。喧嘩が弱ければ、わざわざ他人に喧嘩を吹っかけるような真似はするまい(喧嘩が弱いのに喧嘩を吹っかけてくる奴というのは、乱暴者ではなく、ただの嫌な奴というのである)。
 普通の人間は、喧嘩になりそうな場面を避けるし、喧嘩にならないように振る舞う。つまり、喧嘩を怖がっているということだ。
 が、喧嘩の強い人間は、喧嘩を怖がらない。喧嘩になりそうな場面では血沸き肉踊るような快感を覚えるし、時には喧嘩になるような振る舞いをわざわざしたりする。つまり、喧嘩が好きだからこその乱暴者なのだ。
 たとえば、道を歩くにしても、普通の人間なら、他人と肩がぶつからないようにする。しかし、喧嘩が好きな乱暴者は、他人と肩がぶつかろうが気にしない。堂々と歩くだろう。肩が触れて文句を言われれば、これ幸いと喧嘩を買う。
 これは会話も同じだ。乱暴者は、自分の力を誇示したい。誇示したいがゆえに、大声で恫喝するような調子になる。相手が気を悪くするんじゃないかという気遣いもない。気遣いがないから、口調が荒い。
これが乱暴者というキャラクターを演ずる時に大事な”心の拠り所”というものだ。俳優はこの心の拠り所から出発して、キャラクターを自分の内から育てあげればいい。

 召し使いといった時、そこにどんな人格があるのだろうか。まずは、ここを考えねばならない。
 召し使いになるべくして、召し使いになる人間はいない。その役の仕事としての召し使いであって、召し使いらしい性格や人格といったものは、ないのである。
 召し使いが召し使いらしく見えるのは、召し使いという仕事の時だ。召し使いといえど人間なのだからプライベートもある。
 ホンを読み込んでいる時には、召し使いという仕事ならば、召し使いとしてどんな反応があるかを想像してみる。召し使いだからこそ反応する瞬間と言葉と相手と思考があり、召使いであるからこその反応がある。
 また、召し使いといえど、全ての人々の召し使いではあるまい。主人は誰なのか。主人の言葉と、主人以外の言葉では、重さが違うはずだ。
 また、召し使いだからといって、主人に絶対忠誠ということはない。この主人だからこそ誓う忠誠もある。召し使いは主人のすぐそばにいるからこそ、主人の欠点や短所が見えているだろう。それらを全てわかった上で主人として認めているのか、それとも欠点や短所にはうんざりしているが、仕事の上では主人として認めているかなどの違いがあるのだ。
 これらをホンの中から読み込み、演技として表現するからこそ、そのホンのその役になるのだ。けっして「いわゆる召し使い」などにはならない。


 お嬢様を演ずるなら、ステロタイプ(画一的)なお嬢様像を演ずるのではなく、お嬢様特有の言動・行動がどこに起因するかを考え、どの台詞や行動がお嬢様というキャラクターを示すかを考える。
 お嬢様=高慢ちきなら、なぜ高慢ちきなのかを考える。
 お嬢様は、欲しいと思えばなんでも手に入る。我慢をしたことがない。誰かに強く諫められたこともないだろう。
 つまり、我慢や忍耐といったものがなく、他人に意見されることに慣れていないから、お嬢様は高慢ちきなのだ。
 では、お嬢様は高慢ちきなだけだろうか? 役によって違いはあるが、大事に純粋に育てられたがゆえの長所というものもあるだろう。
 また、お嬢様だからこその表現というものもあるだろう。あまりある金をつかって、なんでもあげることを愛情と思うこともあるだろう。問題は、それが純粋かどうかということだ。たとえ、愛情表現が歪んでいたとしても、それが純粋な気持ちからなのか、それとも遊びかによって、ストーリーやドラマに与える影響は変わってくる。
 ホンの中から多面的に長所と短所を捉え、演技表現の中で組み合わせていくことにより、そのホンのお嬢様というものが際立っていき、その役ならではのお嬢様になる。

 これらは私が勝田の安達ジムやバンタンで口を酸っぱくして言っていることだ。まあ、そう簡単にクリアーできることではない。頭ではわかっているつもりになっても、演技表現として結実するには、ひじょうに時間がかかる。それこそ何度も何度も失敗しなければできないことだ。
 幸い、桜塾は、私よりもはるかに人格が優れている咲良さんが指導されている。何度だって失敗してみればいい。失敗しなければ見えない領域というのがあるんだし、失敗を怖がっているうちは到達できない地点というものがあるのだ。咲良さんは何度だって失敗を許してくれるよ。咲良さんの元生徒である私が言うんだから間違いはない。

 いやぁ、おもしろいよね。お芝居ってさ。桜塾のみなさん、21世紀もがんばってくれ!


[52] 演劇的ネオテニー 2001-01-01 (Mon)


 仕事柄、私の周囲にはクリエイターが多いのだが、優れたクリエイターには共通したものがある。
それは“好奇心”だ。

たとえば、世間ではゲテモノとされるような料理を「一度は食べてみたいな」とか、どう考えてもミスマッチな素材の組み合わせであっても「もしかしたら、合うかもしれないよ」と挑戦する。
まあ、これぐらいは序の口だ。
たとえば、書店に行くと、わけのわからん専門誌を突然買ってきたりする。墓石や霊園の業界専門誌や、農業や種苗の業界専門誌を買ってきて読み、「へー、こういう業界もあるんだねえ」と感心していたりする。
 自販機で変なジュースを見つけたら、つい小銭入れからお金を取り出そうとする。コンビニで新発売のお菓子を見つけたら、篭の中に入れずにはすまない。オモチャ屋の店頭で感心しきって、デモ中のオモチャをみつめる。
 私は、これら好奇心の発露を「おもしろがれる能力」といっている。

 私は俳優修業を、
第I期「わけもわからず駆け抜ける/暴走期」
第II期「辛く苦しい/混迷期」
第III期「わかった気になる/勘違い期」
第IV期「実力不足に気付く/やり直し期」
第V期「演劇と真正面から向き合う/繰り返し訓練期」
第VI期「演ずることを素直に喜ぶ/歓喜期」
第VII期「自分のペースを調整可能となる/安定期」
‥‥‥と7つの期にわけて考えている。
志望者のうち、第I期で10%が潰れ、第II期で15%が、第III期で20%が、第IV期で25%が潰れる。
 まあ、養成所の中にいれば、簡単にわかることだ。最初は誰でも夢一杯だから、とにかくやればいいんだとばかりにやってくれる。最初の1年やそこいらは「器用さ=それっぽさ」でどうにかなるからね。
 問題は第IV期に至れない連中である。「自分はできている」と思い込み、反省も自省も内省もなく、ただただしがみつく。サイアクなのは、他人を批判することによって、自分の地位を上げようとする愚か者である。
が、残念ながら、志望者のうち6割は、ここまでどまりなんだよね。
 第IV期までで7割が消え去り、残り3割のほとんどが、第V期・第VI期までに消える。第VII期に至るのは、誤差のごとき数%のみだ。
 第I期〜第V期までは、講師が教えられることである。ってゆーか、教えているはず。教えているのに、本人がやらないだけ、辛く苦しい現実から逃げているだけ。
 俳優修業における最大のヤマ場はどこかといえば、第VI期/歓喜期なのだ。

 ヒトという生物は、出生時点において、極めて未成熟な状態で生まれる。
 たとえば、同じ哺乳類の牛や馬などは、生まれて数十分以内に歩行が可能となる。しかし、ヒトは生まれてから1年近くを経過しなければ歩行が不可能だ。
 たとえば、犬や猫は生後1年で繁殖可能となる。しかし、ヒトは生後10年以上を経過しなければ繁殖が不可能だ。
 ヒトという生物は、あえて未成熟なままに誕生し、幼児期を長く続ける。長い幼児期に、脳と神経を発達させ続ける。また、ヒトは思考と行動に幼児期の特徴を長く残しつづける。これをネオテニー(幼形成熟)という。
 そして、このネオテニーが最も顕著に表れる精神活動こそが好奇心なのである。ヒトはネオテニーであるからこそ、脳と神経を発達させられ、万物の霊長たる知性・理性そして情動を会得できたのだ。

 話を戻そう。
 私は好奇心を「おもしろがる能力」と定義している。
普通の大人では馬鹿らしくてやれないようなこと、
くだらないと一笑に付してしまうようなこと、
非合理的すぎて遠ざけてしまうこと、
損得勘定して割が合わないといってやらないこと、
今さら恥ずかしくてできないようなことであっても、好奇心があれば、できる。

私が「凄いなあ」と思う俳優は、みな、どこかしら少年少女の面影をもっている。みな、「おもしろがる能力」に長けているのである。
これ、実際に養成所で勉強している志望者諸君は、自分の目の前にいる講師をジッと観察してみれば、すぐにでもわかる。
 優秀な講師は、みな、表情に少年少女の面影を残している。瞳に、その時の気持ちがスッとあらわれる。実年齢60歳を超えているはずなのに、喜んでいる時は、まるで一〇代のような輝きが瞳に宿る。
 それに比べ、実年齢が一〇代や二〇代前半である志望者の方が、表情が老け込んでいる。瞳に輝きがなく、笑顔が弱々しい。

 Play is Play‥‥ 演ずることは、遊ぶこと。
 遊びは真剣であればあるほどに楽しい。
夢中になれない遊びはつまらない。
遊べること。このことこそが、俳優修業最大のヤマ場である第6期/歓喜期に至るためには大事なのだ。
日々における小さな成長を、心から楽しめる「おもしろがる能力」こそが、演劇的ネオテニーとなるのだ。
 教えてもらったことだけを金科玉条のごとく守り抜き、自分の世界=演出の世界からはみだすのを怖がる。まるで、忠犬のごとく演出にかしづく自分こそが正しいと、周囲まで同じ色に変えようとする。こんな調子では、演劇的ネオテニーに至るのは不可能だ。
大切なことは、艱難辛苦を喜びに変えられる力‥‥おもしろがる能力だ。
どんなに辛いことであっても、苦しみが全身を支配するような時であっても、それを乗り越えた末に手に入れられるであろう成果を夢見て、ニッコリと微笑む気持ち。

 というわけで、21世紀どあたま、2001年の目標は「演劇的ネオテニー=おもしろがる能力を大事にしよう」。
辛い時、苦しい時こそが成長の時だと思って、辛苦をおもしろがれるように。

ま、そういうわけで今年も安達成彦ともども、当hpをよろしくお願いしますね。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

☆63628アクセス突破! さんきゅ♪


[51] 発表公演によくある風景 2000-12-19 (Tue)

 ついに12月も半ばを過ぎた。師走というやつである。ご多分に漏れず、私も走り回っている。儲からないのに走り回されるというのは空しいものである。
 なにはともあれ‥‥‥
 年末ともなると、ドコの養成所もせわしなくなる。
 卒業年にあたる生徒たちは、プロダクションに残れるかどうかの瀬戸際で焦り出し、または次にどこの養成所に進学するかで慌て出す。
 そして、年度末に向けて、公演発表があるところも多い。まあ、色んな笑い話を聞く。
 養成所や声優学校における公演発表は、だいたい1本の戯曲を半年がかりぐらいでやる。すると、どこであっても、だいたい次のような問題が起きる。

「台本をもらって1ヶ月以上経過しているのに台詞を覚えていない奴」‥‥‥あるあるある〜度80%。
 台本を覚えないで「真剣です」なんて、よくも言えるものだと思う。そういう奴が声優になりたい理由というのは「声優は、台本を手にできるから、物覚えが悪いボクでもできるかも」なのかねえ?
 これにはホントーに困らされるんだよね。でも、ダイジョーブだよ。なぜなら、この手のタイプは年末に「冬休み中に絶対に台詞を覚えておけよ」と言われたのに、冬休み明けにも覚えられなくて、結局は来なくなって辞めちゃう確率が高いから。

「自主練習をすっぽかす奴」‥‥‥あるあるある〜度90%
 みんなでスケジュール調整して、稽古場を借りて、自主練習日をつくったのに、遅刻したり休んだりして、自主練習をぶちこわす奴ってのも多い。
 結局、人が足りなくなって、予定の幕や場ができなくなり変更したり、またはダラダラしたお話し合いをしてオワリとなる。女性がやる役を男がやったりして乗り切るケースもあるが‥‥‥ あんまり意味はないよな。
 このケースは、本当に多い。まず、このケースを体験しない発表公演というのはないだろうというぐらいに。だから、みんな、「参加することに意義がある」状態になる。練習のために集まるのではなく、とにかく集まることしか考えなくなる。これで勉強になるわけないじゃん‥‥‥

「仕事をする人間としない人間にスッパリと分かれる」‥‥‥あるあるあ
る〜度100%
 ほとんどの発表公演では、大道具・小道具・衣装・音響・証明のほとん
どを生徒たちがやる。
 すると、チャンとやる人間と全く何もしない人間のふたつにスパッと分かれるんだよねえ。
 やらない奴って、ナンダカンダと言い訳してとにかくやらないんだよね。で、仕事を押しつけたとしても、イイカゲンにやったりバックレたりするから、結局は「やる人」に全て押しつけられるんだよ。いや、もう、この無神経さといったら凄いもんだよ。
 で、だいたい「やる人」というのはお芝居もソコソコなのだが、「やらない人」はお芝居もドヘタクソなんだよね。

 そして、これからは、アッタマにくる現象が絶対に起きる。
 1月を過ぎると、それまでしょっちゅう練習を休んだり遅刻していた奴であったり、それまでの制作をサボッてばかりいた奴が、急に「みんな、もう時間がないんだ、真面目にやろうぜ!」と意気込みはじめるのだ。
 これがもう笑っちゃうぐらいの変化で、「をいをい、UFOにさらわれて、変な光線でもビビビッとやられたんじゃないのか?」と心配するぐらいである。

 ‥‥‥そして、これらの現象は、今も日本のどこかで必ず起きている(笑)。

 で、私にいわせれば、こんなもんは全員参加を前提にしちゃうから起きる必然なんだよ。
 全員参加は理想ではあると思う。でも、観客にも迷惑なら、参加者にも迷惑な理想なんだよね。
 そもそも舞台というのは、ベストメンバーで行われるべきである。それは、たとえ、勉強のための研究発表であっても、だ。
 ギリギリまで練習をし、最後にベストメンバーで本番として発表すればいいんだよ、ホントはね。
 だって、生徒を平等に見ようとしたって、生徒の能力は均等じゃないし、生徒のやる気も均等じゃないんだから。
 勉強を始めた時期はいっしょでも、その後は当人の努力なんだよね。1年も経てばその差は歴然とする。なのに、生徒ということだけで一括りにしてしまうから、悲喜劇が生まれるというわけだ。
 だいたい、役者が役を取り合わないでどうするんだよ。競り合った上で手に入れた役だからこその「重み」というのがあるんだし、公演に対する責任感というのが生まれるものなんだがなあ。

 まあ、こんなことを言っても、生徒である諸君にはしょうがないことか。可哀相だけど‥‥‥

 アドバイスはひとつ。
「青春の思い出づくりに巻き込まれるな」
 言っちゃ悪いが、養成所だの声優学校の中でやる舞台公演には限界がある。
 舞台公演を通して勉強して欲しいことは山ほどあるが、そこに舞台をキライになって欲しいなどというものは微塵もない。
 そもそも、舞台をキライになってしまうような発表公演など百害あって一利なし。
 「これはカリキュラムの一環なんだ。ホンモノの舞台はもっと楽しいものなのだ」と思い直し、距離感をとって参加すればいい。
 まずは台詞を完璧に覚え、可能な限り自主練習に参加し(生活が壊れないことが前提だよ)、自分ができる制作手伝いはやる。これ以上のことはやらなくてもいい。
 距離感と冷静さをもてばいいだけのことだよ。お祭り気分に巻き込まれてしまっているから、バイトができなくなって生活が壊れたり、心労が重なってしまうのである。

 もっと大事なことは、たとえ、公演発表のための稽古期間中であったとしても、基礎練習を欠かさないことである。
 いるんだよねー。公演発表が終わってみると、基礎能力が一気に下がっているバカ。
 そりゃ、身体訓練だの滑舌訓練だの発声練習をやっているよりは、お芝居をやっている方が勉強している実感はあるだろう。
 でも、それじゃダメなんだよ。
 たとえ、どんなに忙しくしていたって、基礎訓練だけはシッカリとやらなくちゃいけない。ここんところだけは勘違いしちゃダメだよ。
 他ならぬ自分のためだからね。

 ま。なにはともあれ、みんな、頑張ってね。
 辛くて、苦しくて、しかもアホ臭い目に遭うこと確実の発表公演だけど、全く何の役にも経たないわけじゃないから。

 そうそう。最後に、ある志望者が発表公演が終わってからの反省会での一言をここに再録してみよう。

「はぁ〜‥‥‥ もう勘弁してください。やっと終わったという気しかしません。以上」

 これが正しい姿だよ(冷笑)。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

★62100アクセス突破! さんきゅ♪

★オヤシラズ手術跡を抜糸。あの鬼のような頭痛が楽になりました。めでたし、めでたし。

★先日のエモティオ主催『解釈術基礎講座』に参加したみんな、ご苦労さん。勢いのお芝居だけでなく、アタマをつかったお芝居もできるようになってね。


[50] 近代演劇は家元制じゃないんだけどねえ 2000-12-12 (Tue)

 日本には『家元』という制度がある。江戸中期頃に確立したというこの制度は、創始者の家系を頂点とする世襲制が基本だ。
 茶道・華道・日本舞踊の家元・宗匠は免許皆伝・師範代・段位認証といった階級を認証する最高権力者となる。
 演劇界でも、伝統芸能である能・狂言・歌舞伎などは家元制である。基本的には、親から子へと名跡が継がれていく。

 家元制には、メリットもあればデメリットもある。
 メリットは、伝統の継承だ。ヨーロッパの演劇は戯曲によって残っているが、日本の伝統芸能は家元制のおかげで演出そのものまで併せて残っている。また、幼少時から演劇を身近にして育っているから、芝居勘ともいうべきものが研ぎ澄まされる。
 デメリットは、停滞だ。その家系に生まれない限り、家元(名跡)になれない理不尽さのため、新しい才能が育ちにくい。また、日本の伝統芸能の場合、「口だて」で伝わっていくため、戯曲として文字になっていないものも多く、新解釈や新演出がほぼ不可能に近い閉塞状況に陥っている。
 もっとも、能・狂言・歌舞伎界の人間も、その点は重々承知で、文化庁の保護のもと、新しい才能を育成すべく頑張ってはいる。

 海外では、家元に近い制度はない。中国・韓国では家系を大事にはするが、芸能における流派の代表者は別で、最も実力のある者が継承していく。
 クラシック・バレエの世界ともなると、もっと過酷になる。海外の有名バレエ団の入団審査では、そのダンサーの実力のみならず、家系的身体資質までが選考基準になる。祖父母の代の身体データまで提出させられ、家系の中に肥満者があったら、即アウトだ。

 さて、近代演劇の世界においては、家元も家系も関係はない。そもそも流派というものがあるわけでもない。
 もし、流派に近いものがあるとしたならば、それは「どんな系統の演劇訓練を経てきたか?」ということだ。
 日本における20世紀‥‥特に第二次世界大戦後においては、大きく3つにしか分かれない。
 「スタニスラフスキー・システム」「シェイクスピア・スタイル」そして「アマチュアリズム」。
 それぞれの是非は、ここでは言うまい。
 問題は、スタニスラフスキーを標榜しながらも、スタニスラフスキーと反することを平気でやらかしている輩の存在である。

 先日、相談を受けた「ミザンス完璧にして素直な芝居」という大矛盾演出にしてもそうだが、もはや演出以前の人間が講師として初心者に指導し、自分はスタ・シスだというのには、本当に頭が痛くなる。
 なんで、こんなことになるのか、と調べれば調べるほどにわかること。
それは家元制を生み出すに至った日本人的感性だ。

 日本は縦社会を重んじる。
 演出は、作品制作の最高権力者である。これは間違いない。作品制作における全ての権力の集結先は演出とならねば、制作現場そのものの秩序が崩壊し、制作に支障が出てしまうが、だからといって、演出が言えば、黒いカラスが白くなるわけでもない。
 ミザンスひとつとってみても、演劇的理由なく役者を立ったり座らせたり、立ち位置を移動させてはいけない。これ、スタ・シスの原則だよ。
 でも、スタ・シスを標榜する50代以上の演出や講師には、キッカケ芝居・段取り芝居を好きな人が多いのである。
 これ、私は昔から不思議でならなかったのだが、最近、やっとわかったことがあった。それは新劇時代の問題点なのである。

 伝統芸能とは違う世界で始まったはずの新劇だったのだが、かっての新劇には演出至上主義が強かった。
 スタニスラフスキー研究を始めたのは新劇の演出だったのだが、どうやら、そのきっかけは演出の理論武装という面も強かったようなのである。
 役者を説得するためというよりも、役者に対して演出が絶対優位に立つための理論武装としてのスタニスラフスキー研究という面もあったらしい。
 これは日本にスタニスラフスキー研究が根付くまでは良かったのだが、現実の歴史においては、演出至上主義の新劇が廃れるにつれて、スタニスラフスキーの評価まで併せて墜ちてしまった。
 その後は、自分の師匠である演出がスタニスラフスキー研究の第一人者だから、自分もスタ・シス継承者であると思いこんでいる演出が新劇出身者には多いのだ。
 いわば家元制でスタニスラフスキーを継承できると思っているようなもんだよね。これでは墓の下のスタニスラフスキーも浮かばれないよ、ったく‥‥‥

 アクターズ・メソッド(メソッド演技)は、リー・ストラスバーグとエリア・カザンが、アメリカにおいてスタ・シスを発展させたところから始まる。つまり、アメリカにおいて進化したスタ・シスが、アクターズ・メソッドなのである。
 日本だって、かってはスタニスラフスキー研究と実践が盛り上がった時期があったのだから、日本でスタ・シスが進化する可能性はあった。しかし、現実は、家元制のごとき演出至上主義が進化の可能性を潰してしまった。
 その上、もっとも問題となるのは、演出至上主義の残滓ともいうべきレベルの演出が、俳優養成の現場でデカい顔をしていることだ。

 さて、ここで諦めているだけではいかんのだ。
 知った風な顔をして「しょうがないよ」とか、したり顔で「そんなものさ」といったところで、物事は何も進展しない。
 前回も書いたが、世の中は移り変わり、そして、また繰り返す。
 ただ、次の繰り返しにおいては、同じ間違いをしないようにさえ、すればいいのである。
 なにはともあれ、21世紀には、演出至上主義の残滓どもの駆逐からでも始めるかね。幸い私のできること、私に任されること、私が動かせることは、数年前よりもはるかに増えているからさ。

 お楽しみはこれからだ! ‥‥‥ってなもんだ。首を洗って待っていてもらおうじゃないか。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

★61400アクセス突破! さんきゅ♪

★これから最後に残ったオヤシラズの抜歯に行ってきます‥‥‥ うぅぅ〜。たまらんなあ。


[49] 時代は繰り返す、時代は変わる 2000-12-08 (Fri)

 11月ぐらいから、各養成所の2001年度募集要項が配布されはじめている。
 私のところには、進路相談にくる生徒たちがパンフレットを持ってきてくれる。華やかなものあり、シンプルなものあり、まあ、イロイロとある。
 そして、私はある大手プロ附属養成所養成所をやっと手にした。
 某プロ附属養成所は今まで2年制でやっていたのだが、予科を1年プラスするのだ。そして、その予科では、今の基礎科よりも発声や滑舌に重きを置く。
 私はこの噂を夏ぐらいに聞いていたのだが‥‥‥ アイドル声優ブームのしっぽを追いかけているプロダクションがまだまだ多数の中、これは大英断である。
私は「よくやってくれた!」と思うと同時に、「やっぱりね」とほくそ笑んだ。

時代は繰り返す。この言葉を聞いたことがない人はいないだろう。
特に、流行や風潮というものは、何度も何度も繰り返される。
たとえば、声優ブームも今までに3度も繰り返されてきた。

第1次声優ブームは1960年代後半から1970年代にかけてだった。アテレコ声優を中心として、深夜ラジオからブレイクした。1970年代末から1980年代にかけての第2次声優ブームが、『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』『機動戦士ガンダム』でブレイク。そして、1980年代末から、今に続く第3次声優ブームだ。
 第1次と第2次は、声優=俳優であった。特に第1次の頃は「声優=舞台俳優のアルバイト」であり、第2次の頃は中堅・ベテランの舞台俳優出身者を中心としたブームだった。
 第2次以来、アニメ・ブームと声優ブームはイコールである。それでも第2次の頃までは、声優=俳優の実力を問われていた。
 が、第3次は違った。アニメーションというコンテンツは商売になるとされ、声優そのものの商品価値が問われた。特にメディアミックスを企画している作品では、声優も当然のように顔を出す。そこから、声優と役がイコール・イメージにされ、アイドル声優が次々と出てきた。
 アニメ・ブーム=声優ブームは、もうひとつの現象を生む。それは声優志望者の増加だ。これも第2次以来の傾向だろう。ただ、第2次=80年代の声優志望者と、第3次=90年代の声優志望者で、これまた大きな違いがある。
 80年代の声優志望者は、声優=俳優という原点を理解していた。というよりも、養成所講師がそれを当たり前のこととして躾た。しかし、90年代の声優志望者は、声優=俳優を受け入れきれない者が多い。
 それは目指す声優の違いといってもいい。80年代の声優志望者が目指していた声優は、当然のように舞台をやっていた。しかし、第3次になり、アイドル声優を見て業界を目指した声優志望者は、声優=俳優を受け入れられないのである。
 (じゃあ、自分が、アイドルなり、タレントなりやれるだけのルックスとキャラクターをもっているかということを直視しないのが最大の問題点でもあるのだが‥‥‥)
 無論、声優志望者だけではなく、計画性なく商売だけで養成所を始めたプロダクションにも、非はある。
 アイドル声優ブーム絶頂の時には、俳優としての能力など度外視して、つい数ヶ月前に養成所の門を叩いたばかりのカワイコちゃんを現場に押し込んだりしたしね。
今や、ついに終焉を迎えつつある第3次声優ブームだが、そんな能力無視・ルックス重視状態が5年以上も続いたのだから、声優志望者に妙な考えが蔓延するのにも時間はかからなかった。
 プロダクションの姿勢も問題だが、志望者全般の姿勢までおかしくなってしまったのである。

 時代は繰り返す‥‥‥
 この言葉の意味を、もう一度、考えてもらいたい。
 過ぎたるは及ばざるが如し。
 物事とはおもしろいもので、ある一定の圧力が力を持ちすぎると、反発する圧力も出てくる。アンチテーゼ、カウンター(対抗)というものだ。
 特に、声優養成に関しては、私はこのhpを始める前から、このことをニフティサーブのパティオで繰り返してきた。
 「必ず揺り戻しが来る。それも5年以内だ」と。
 アイドル声優、声優のタレント化が進めば進むほどに、声優=俳優の力も、また増す。
 声優として、プロダクションに所属して仕事をするだけの能力を持つには、どんなに短くても5年、普通は8年はかかる。つまり、今から始めれば、現状が崩れる過渡期にぶつけることができる、と。
 それまで、ある程度の批判を受けることは覚悟していた。時代遅れ、流行遅れと言われるであろうことは。
 とにもかくにも、待つしかないと思っていたのだが‥‥‥ やっぱり、待っていて正解だったな、というのが私の結論である。

 というわけで、冒頭に戻る。

業界を代表するプロダクションの附属養成所が、発声・滑舌のための1年をつくるということは、プロダクションの方向転換を示す。
 この現象は、あと3年以内に業界を席巻するだろう。2001年度は1社だが、2002年度はあと2社は後追いをする。2003年度になれば、業界全体が雪崩を打つことは間違いない。
 これは、アイドル声優、タレント声優が消滅するということではない。
ビジネスとして、アイドル声優・タレント声優という分野はこれから先も確実に残る。なんてったって、ショーバイ的にオイシイからね。しかし、次に90年代ほどのアイドル声優ブームが起こるのは、10年近く先になるだろう。
21世紀からは、間違いなく実力派が復権する。声優=俳優の時代が繰り返される。
 そして、時代は、実力派とタレント派の共存状態になる。
昔は、ひとつの流行が全てを支配した。
たとえば、ファッションでも、みんなアイビー、みんなコンチ、みんなテクノ、みんなDC‥‥‥という具合に。
 声優に近いところで言えば、音楽もそうだ。GS一辺倒、フォーク一辺倒、歌謡曲一辺倒、ニューミュージック一辺倒、アイドルポップス一辺倒、バンド一辺倒‥‥‥
 しかし、価値観の多様化が叫ばれた80年代末からは違う。
90年代から、ファッションはなんでもアリアリで、大学の教室など50年代、60年代、70年代がゴチャマゼとなっている。これは音楽も同じだ。ヒットチャートには、ロックあり、ポップスあり、フォークあり‥‥‥
 同じことは、声優にも起きる。アイドル声優・タレント声優は、もはや不滅である。しかし、実力派もまた不滅なのだ。

 ネットというのはおもしろいもので、実名を出している私の発言も、匿名の正体不明者の発言も、モニターの中では同じように映る。
 なによりも、声優志望者である君たちはプレイヤー(実演家)なのであって、評論家ではないことを明確に意識しよう。

 誰の言葉を信じ、
 どの道を進むかは、
 ほかならぬ自分次第だよ。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

★61000アクセス突破! さんきゅ♪

★1本だけ残ったオヤシラズのおかげで、肩がこってこって、どうしようもない。こりすぎで、頭が毎日のように痛い。あうぅ〜!


[47] 勝田声優学院の受験資格について 2000-11-30 (Thu)

 掲示板で続いていた受験資格チェーンですが、一応の決着(?)を見ました。

 結論……通信制・定時制の高校生も、一般高校生と同様に勝田声優学院受験を認めます。(良かったね)
 でも、勝田声優学院においては、高校生は学業最優先であることを忘れないでね。
 高校中退して、通信制・定時制に通っている人は、どんなことがあっても、今度こそ高校を卒業しなくちゃダメだよ。
 もし、勝田在学中に高校を中退した場合には、勝田も辞めてもらいます。

 「声優にとって、高校になんの意味があるんだ? そこまでして、高卒にこだわる意味ってあるのか?」と思う人もいるだろう。
 でも、そういうのって議論で正しさを云々するものじゃないんだよ。大きなお世話だと思われるだろうが、それが社会であり世間の常識だと受け入れて欲しい。
 私たち養成所講師というのは、公教育……中学や高校の教師ではない。あくまでも芝居を教えるのが仕事。
 でもね、それ以前の問題として、私たちは大人でもあるんだよ。
 高校を卒業していないことが、人生において、どれだけのデメリットをもたらすか、ということも、君たち以上によく知っている。

 なによりも、学生として、養成所に通おうとしている人たちに問いたい。
 君たちは、養成所費用を誰に出してもらうのかな?
 ほとんどの場合、金の出所は親御さんでしょう?
 中には、バイトして、きちんきちんと学費を親に返す人もいるだろう。それにしたって、親が工面してくれなかったら、どうしようもないのが現実じゃないのかな?
 よっぽどの変わり者でもなければ、今の時代、せめて、高校ぐらいは卒業しておいてほしいという親の気持ちも、私たちは大人として痛いほどにわかるんだよ。
 それが、高校は中退するわ、役者になりたいと言い出すわ、その費用は出してくれというんじゃ、私たちだって申し訳なくて仕方がないんだ。
 私は三十路半ばになりつつも、バツイチで独身、子どももいない。それでもね、親の気持ちというものは、君たちに比べれば、まだ、わかるものなんだよ。
 また、逆を言えば、私は君たちの気持ちもわからないではない。というよりも、痛いほどにわかる。一応、年齢的には、君たちの親に比べれば、君たちに近いからね。
 いつでも大人の味方というわけでもなければ、いつでも子どもの味方というわけでもない。
 だから、なるべく、どちらも納得するように仲立ちしたいと考えている。今回のは、そういうことだと思ってください。

 そして、もうひとつ、大事なこと。
 これは声優志望者全員に……

 大人というのは、年齢さえ重ねればなれるものではない。
 本人に、大人になろうという意志があるかどうかを問われる。
 世間には、大人の年齢に達していても、大人として生きていけない人は沢山いる。
 だから、相手が大人の年齢に達しているからといって、大人としての振るまいを求めないこと。期待しないこと。
 そして、自分は、大人となるべく、努力をすること。
 素敵な大人、かっこいい大人…… なんでも、いい。
 子どものままでいようなんて思っちゃいけない。
 自分自身の個人的な損得勘定抜きで生きていけるような、そんな大人になってほしい。
 ホンモノの大人になろうな。
 君たちが知らないだけで、世の中にはホンモノの大人が沢山いるんだ。
 今、学生のキミ。
 キミが知っている大人は、せいぜいが学校の教師か、自分の親までだろう。
 社会は、そんなに狭いものじゃない。
 大人は、そんなに少ないものじゃない。
 すごい大人ってのが、いっぱいいるんだよ。
 そういう大人に出会ったとき、認めてもらえるような人間になるべく、自分で自分を律しよう。
 大事なことは、自分自身だよ。
 周囲を言い訳にしちゃいけない。
 親が悪い、教師が悪い? そんなものに負ける自分自身が、いちばん悪いんだということを忘れるな。
 一人前の大人になろう。
 そんな生き方をすればこそ、見えてくるよ。
 友人のありがたさであり、親のありがたさであり、恋人のありがたさというものがね。

 頑張ろうな!


[46] 実は…私も中退予備軍であった 2000-11-29 (Wed)

 最近、高校中退関連の質問が掲示板で相次いでいる。その他、個人的な相談メールの中にも、高校中退に関わることが増えている。

 私が高校性の頃…… 今から18年ぐらいも前から、高校中退者の数というのが激増した。
 私は、いわゆる丙午(ヒノエウマ)で、まあ、ろくでもない世代である。
 中学の頃は校内暴力絶頂期。金八先生の「俺たちは腐ったミカンじゃない!」とゆー加藤クンの名台詞であったり、♪センセー、あなたは大人の代弁者なのか〜♪の尾崎の世界が、「やんか、こら? ああん?」の『ビーバップハイスクール』的世界が、ごくごくフツーに展開されていた。
 なんてったって、男子生徒のほとんどは矢沢永吉かクールスか横浜銀蠅のファンで、イマドキのビジュアル系バンドとは一切無縁な男クサイ世界で「土曜の夜はバリバリィ〜!」とほざいていたのである。
 日曜日ともなれば、竹の子族だ、ローラーだと原宿ホコテンに出かけ、夜は夜でライブハウスでパンクスだなんだといってはフライングしてた馬鹿がやたらと多かった。
 そんな連中が高校へ進学したのである。中学は義務教育だからイヤイヤながらも行っていたが、高校は行きたくなけりゃ行かなくてもいい。そりゃ、中退者も激増するわな。
 ってゆーか、うちの高校はそのスジの世界では高名な極道を輩出している名門不良学校で、その上、吹き溜まりのような商業科だったから、やたらと中退者が多かったんだよね。1年の時は52人いたはずなのに、卒業時には41人だったもん。
 教室の中で抗争ができるくらい、暴走族関係者がワラワラといて、東京の主要暴走族ステッカーならなんでも手にはいるようなクラスだったのである。校内の喧嘩で殺人事件が起きて、ワイドショーの取材でヘリコプターから空撮されるような高校だったのだ(事実だよん)。

 御多分にもれず、私も中退予備軍であった。
 高校へ行かず、ガクラン姿でしょっちゅうパチンコの開店を待っていた。当時は羽台とフィーバー台が半々で、羽台で玉を増やして、フィーバーで勝負! なーんてことができたからね。
 で、バイトしまくっていた。中学の頃から、オールバック・リーゼントで喫茶店でバイトしていたし、高校に上がってからは増え始めてきた24時間コンビニで深夜バイトに入っていた。
 なーんか、かったるかったんだよね。中学ン時みたいな無茶をする気はないし、かといって、なにかやりたいことがあるわけではない。
 バイトが楽しかったのは、一所懸命働いた代償がキチンと手にはいるから。親に買ってもらったステレオ・セットなんかより、自分のバイト代で買ったウォークマンにこそ価値があった。たとえ、ファーストフードのハンバーガーであろうとも、デートの時にバイト代でおごれる甲斐性みたいなものが嬉しかったりした。
 池袋の大都会という居酒屋で朝の6時までガクランのまま飲んで、そのまま、タクシーで高校へ登校し、酒臭い息のまんま、下校の時間まで居眠りこいていたことなんかも、よくあった。

 だが、そんなノホホン生活も、いつまでもは続かない。うちの高校は1年間に30日間の欠席があると進級不可(遅刻・早退は3回で1日の欠席とみなす)。私は1年の2学期終了時点で欠席25日に達し、親を呼び出されてしまったのである。
 私自身は「まだ、5日間もあるんだから楽勝じゃん。3学期なんて短いんだしさ〜」とノンキなものだったが、親は烈火のごとく怒り狂った。クリスマス・デートから帰ってきたら、コンコンと説教をされ、ようやく自分の未来について考え始めた年末であった。
 冬休み中、「さーて、どうするか」と考えた。
 中退は、ひとつの選択肢であった。が、中退するんなら、就職するのがスジだ(80年代不良は、スジにはうるさいのである)。じゃあ、どんな業界に就職したいか? 飲食業界? 趣味と実益を活かしたパチンコ業界かゲーセン業界か? テキヤにくっついてタコ焼き売って歩くのも楽しいのだが、すると、彼女と別れなくちゃいけないから諦めた。(当時、私に彼女がいなかったら、今頃はテキヤになっている可能性は高かったのである)
 中退しないにしても、なにか、やらなくちゃいかんな、と本能的に思った。打ち込めるものがないと、今の怠惰な生活がウダウダと卒業まで続くのは目に見えている。部活か? うちの学校の運動部はハンパじゃなくキツイ。それに2年から運動部に入るのは、なんとなくダサくてイヤだ。(もし、うちの高校に応援団があったなら、迷うことなく入団していただろう。その場合、このhpは応援団hpとなっていたかもしれない)
 「なんか、おもしれぇことはないかな?」と考えているところへ、友人から電話があり、勝田話法研究所を受験するという。で、一緒に受験しないか、と。正直言って、私は声優というものをほとんど知らなかった。友人は私が「DJになりたいなあ」と言っていたことを覚えていたのである。ちなみに私はその時、完璧に忘れ去っていたんだけれどもね。あはは。
 声優とゆーのはよくわからんが、話法を研究するというなら、DJの勉強にもなるだろう。「よし! 俺はDJを目指すことにするぞ」程度の意識で、私は勝田を受験し、合格したのであった。(ちなみに友人は不合格。当時、勝田の競争率は2倍ぐらいあって、落とされた人が多かったんよ)
 あとは、もう、疾風怒涛であった。私自身が演劇と相性が良かったのだろうし、良い講師と巡り合えたこともあって、のめりこみまくっていったのである。
 ちなみに…… 肝心の高校の方だが、2年、3年と欠席は減った。それぞれ年間欠席20日以内だったかな(丸一日は休まず、遅刻・早退を駆使したからでもあったが)。勝田へ行くついでに高校へ行っていたから、その結果として減っただけというのが真相だろう。高校の授業中は戯曲やら演劇論を読みまくった。というよりも、戯曲を読む時間が授業中にしかなかったのである。あ、そうか。戯曲を読むために高校へ行っていたようなもんだ。
 なによりも、高校生活に対しての希望みたいなものを一切もたなくなったというのも大きかった。俳優修業に打ち込んでいた分、高校生活と距離感をとれたようなものであった。

 さて、こんな昔話をしたのは、私自身、高校を中退する気持ちもわからないではない、ということをわかってほしかったのである。
 つまんないよ、高校生活なんて。まあ、うちの学校は不良ばっかり集まっていたから、それなり以上には楽しかったんだけどもね。それでも、やっぱり、高校はつまらないと思う。
 今だから言っちゃうけど、私なんか、よくも高校1年の時、欠席日数が25日で済んだものだと思う。当時、付き合っていた彼女に「ちゃんとガッコ行きなさいよ!」としょっちゅう叱られていなかったら、絶対に高校1年の段階でドロップアウトしていただろうね。
 また、教師ってのも、なんだかウザってぇ連中なんだよね。おしなべて教師は「キミタチ、社会は厳しいんだぞ!」とかよく言うけど、「ああん?」ってなもんだ。おまえら教師って、大学出て、また学校に戻ってきたんだろ? ガッコしか知らないじゃん。社会なんか出たことねーじゃん。なんで、そんな奴が社会の厳しさ云々言うかねってなもんだ。
 同級生ってのも、なんだか、ウザいんだよな。たまたま同じクラスになっただけじゃん。それだけの理由で、40人も50人も友だちだとか言われたって、実感わかねーってーの! 嫌いな奴や合わない奴がいて当たり前だよ。そんな連中のために連帯責任なんかとらされると、脳天大噴火だっちゅーの。
 それに、今の子ってナイーヴだもんね。ガサツで単細胞な私なんかと比べたら、悩みが多いんだろうなあ。昔と違って、陰湿なイジメも多いらしいし、余計に高校へ行きたくなくなって当然だよなあ。

 でもね、でもなんだよ。
 「高校中退」という結論を出したのは、誰かということをよーく考えてほしいんだ。
 自分の子どもが高校中退すると言い出したら、どこの親だって「高校ぐらいは卒業しておけ」と説得するのがフツー。高校を卒業しておかないと、社会に出てから様々なデメリットがあると、散々言われているはずだ。
 でも、中退した。つまり、それは自分で出した結論なわけだ。
 中には、教師や校風や同級生と合わなくての不登校が原因になって、高校へ進学できなかったり、または高校を中退した場合もあるだろう。自分のせいばかりじゃない、というケースね。
 でも、やっぱり、一度は「それぐらい我慢ができないと、社会に出てから苦労するよ」ぐらいは言われなかったかな?
 ……実際、苦労するんだよ、養成所や劇団であっても。演出や講師によっては、中学や高校の担任どころの騒ぎじゃないんだよ。先輩の締め付けや、同級生との相性もね。演出とか指導と称して、自分の子どもか孫みたいな年齢の生徒に嫌がらせする講師や演出は現実に存在するんだよ。

 勝田声優学院は、なぜ、中卒を受け入れないのか、という質問というか抗議のメールを何度か受けたことがある。
 いやあ、私に言われても困るんだけどね、ホントの話。だって、創始者の方針だもの。
 夜学や通信制を認めないのは差別だという意見には、私自身も同意する。だが、私のモノじゃないんだよ、勝田は。まあ、なんらかの機会に勝田学院長と話しておくのはやぶさかではないのだが、でも、説得しようという強い意志を私は持っていない。
 なぜなら、高校中退を原因とする夜学や通信制というのは、そのデメリットを本人が十分承知の上で進んだ道だとも思っているから。

 今、中学生やら、一〇代半ばぐらいの人たちにはきつい言い方になるんだけれども、自分が出した覚悟や決意といったものには、ちゃんと責任をもってもらいたい。
 中退だって不登校だって、自分自身でそれが正しい道であり選択であると判断した結果でしょ?
 周囲の大人のほとんどの説得を振り切った結果なんだよね?
 その上で選んだ道なのだから、それに派生するデメリットは、ちゃんと請け負うべきだよ。だって、義務教育が終わった時点で学生じゃなければ、社会人になるしかないんだから。
 女性は16歳ともなれば、結婚して、子どもを産めるんだよ? 男だって18歳ともなれば、結婚して一家の長になれるわけだよ。
 そういう年齢なんだよ、義務教育を修了した時点というのは。
 ホント、自分の行動であり思考には責任をもってほしい。そういう努力をしてほしい。

 なによりも、我々の業界は保守的です。
 学歴社会ではないけれど、高校ぐらいは出ておかないと、養成期間中であっても、かなり嫌な目に遭うからね。
 中退を受け入れない云々で勝田声優学院を責めるなら、勝田声優学院は受験しなければいい。勝田以外にも養成所はいっぱいあるんだから。私は知らないけど、中卒を受け入れてくれる養成所もあるらしいし。ただ、それだけのことでしかないんだよ。

 高校を卒業するなんてのは、そんなに難しくないよ。
 中間テストだろうが期末テストだろうが、養成所のテキストである台本を1週間や2週間で覚えたり、それを何ヶ月もかけて練習して舞台にかけることに比べれば、はるかに楽。
 声優として、プロダクションのジュニアに残ったり、オーディションを突破して役についたりするのに比べれば、高校を卒業することのほうがはるかに楽。
 このことも忘れないでね。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

☆60000hit達成! パンパカパーン! さて、来年6月のオープン2周年にはいったいどれぐらいいくか? 念願の10万hitに達するかな?(笑)


[45] 演出もピンキリ 2000-11-22 (Wed)

 先日、こんなメールをもらった。
 「私は『素直な芝居』ができないといわれ、役づくりをしてはいけないと言われています。とにかく台詞を憶えてきて、ミザンスを間違いなくやれといわれており、それ以上はするな、と」というものだ。
 ふーん、ミザンス完璧にして、素直な芝居ねえ……と苦笑いしてしまった。

 バンタンの土曜コースでは、滑舌とフリーエチュードを中心にやっている。先月までは1人でやるエチュードで、今は2人でやるエチュードとなっている。
 たとえば、こんな「お題」である。

★カップル
 場所・部屋。
男「……まだ怒ってるのか?」
女「…………」
男「……ごめん」
女「…………」
男「ごめんってば」
女「…………」
男「……許してくれないわけ?」
女「……うーそ、もう許してるわよ」
男「なんだよ、もう」

 このフリーエチュードにおける「なにが原因でケンカしたのか?」は、女性が主導する。そして、最終的に許すかどうかも、女性が決める。
 ……で、男女の組み合わせだが、これはジャンケン。まーったく予測がつかない。ってゆーか、つけられないのである。
 とにもかくにも、男は受ける一方。女性がどれくらい怒っているかなどは、ゼーンゼンわからない。
 女性も、最初は許すつもりで始めていても、男の謝り方が気に入らなかったら、途中から許すのをやめてもいい。
 だって、「……うーそ、もう許してるわよ」と言っていたって、許していないってことは現実によくあるハナシじゃん。

 さて、このエチュードで指導していることはナニカ?
 「ナマの反応」というやつである。

 世の中に「自然な演技」を求める演出は多い。
 芝居っぽさや芝居臭さを否定すること…… そのベクトルは正しい。スタニスラフスキーから始まった20世紀演劇が目指すのは「自然な演技」である。
 王様役といったら、ふんぞり返って、低い声でもったいぶって喋り、ゆったりとした大袈裟な身振り手振りを駆使するというような類型的演技を否定し、
 王様のパーソナルな面に迫り、その王様ならではの「反応」をすること。
 それこそが「自然な演技」における役づくりというものだ。
 演技の自然さ、不自然さを左右するのは、雰囲気やムードではない。その役としての「反応」である。
 不自然な演技とは、不自然な反応であり、
 自然な演技とは、自然な反応に他ならない。
 ここまでは演技初心者にもカンタンにわかる論理である。
 で、バンタンでやっている2人エチュードとは、素直な反応というものはどういうものか、ということをわからせるためにある。
 主導権を握っている女性はともかくとして、男は全く次の芝居の予測がつかない。受ける一方のうちに、いつの間にか、ナマの反応をしてしまう。
 それが狙いである。

 さて、問題の「素直な演技」なのだが……
 幸いなことに、私は過去に「素直な演技」などという曖昧なダメ出しを受けたことはない。
 多分、その問題の演出家が言いたいことは、スタニスラフスキー流に言えば「自然な反応を」ということなのだろう。
 が、しかし、なんか違うんだよね。
 冒頭のメールによれば「役づくりをするな」とか言われているが、それを戯曲でやるのはいかがなものか?
 なぜなら、俳優がホンを読んでいるのは、どこをどうやったってひっくり返せない絶対的な事実だからだ。
 ホンを読んでいるということは、次の展開を知っていることであり、ストーリーの最終的な終結点を知っているということでもある。
 なのに、役づくりをするなといわれても、それは困難という以前に不自然なのだ。
 しかも、明かな矛盾もある。
 素直な演技=自然な反応なのだとしたら、なぜ、ミザンスを完璧にすることを求めるのか?
 これ、矛盾以外のナニモノでもないよ。
 だいたい、完璧なミザンスを目指すのって不自然だぞ? それは練習に練習を積み重ねて、何度演じても寸分違わぬ状態にするということに他ならないんだからね。いわば自動的演技というやつで、類型的演技と同じく否定されているんだよ。
 台詞と同じく、ミザンスだって、役の反応から生まれるものなんだ。何度も何度も練習したミザンスを要求しておいて、素直な演技ってナンジャラホイ?
 きっと、その演出って、平気で「きっかけ芝居」を要求するんだろうなあ。「はい、○○のタイミングで××の台詞が入る」とか「××のタイミングで○○は立ち上がる」とかね。うわー、やだやだ。20世紀演劇じゃないよ、そんなの。

 要するに、その演出って、俳優による解釈を否定しているだけじゃん、ってなことなのだ。
 言葉こそ違うが、俳優は演出の言いなりになればいいのだ、と言っているだけのこと。
 解釈は全て演出のモノというんだったら、演出辞めて欲しいなあ。

 なによりも、養成所なのであれば、じゃあ、どうすれば「素直な演技」とやらになるのかを、きちんと説明する義務が講師にはあると思うのだ、私は。
 せめて、自分が考える「素直な演技の正体」ってやつぐらいは、キチンと言葉で説明しなくちゃダメだよ。
 言葉で説明できないんだったら、その人は演出じゃないよ。俳優と観客が説得と納得の関係であるように、演出と俳優だって説得と納得の関係なのだ。
 説得すること=説明することを厭うようなら、それは曖昧なムード演出・イメージ演出なんだから、馬鹿にされてもしょうがない三流演出だね。

 先日、野沢雅子さんと会食の機会があった。正味4時間ほどお話しして…… まあ、本題は、あんまり明るい話題じゃなかったんだけれどもさ……
 本題から離れたところで会話しているうちに、こんな言葉が野沢さんから出てきた。
「結局、『役者演出』って、自分の枠の中でしか作品を仕立て上げられないのよね。自分が目指している演技しか認められないのよ。私はね、そういう『役者演出』を沢山知ってるから、自分はそうはならないように努力しているの」
 やっぱり一流は違うなあ、と思いましたよ、ハイ。
 スタニスラフスキー著『俳優修業』には、「役者は、人形になってはいけない。演出は、役者を人形にしてはいけない」ということが、何度も何度も言葉を変えて出てくる。
 俳優自身の創造的活動を尊重することがスタニスラフスキー・システムの大前提であり、その後にアメリカで展開されたメソッド演技の前提だ。
 たったひとりの演出に気に入られることに躍起になっているだけじゃあ、ろくな俳優にはなれないよ。
 曖昧な演出に振り回されたところで、たかが知れているんだよ。だから、好かれるとか嫌われるという下世話なレベルの人間関係が、教室で展開されちゃうんだって。

 まあ、みんな、苦労してください。
 演出にはピンからキリまでいるということを知る機会だからさ。所内発表や教室でやっている分には罪がないよ……多分ね。
 悪い演出を知らなかったら、良い演出はドコが良いのかもわからないものです(笑)。

=========================================================

★59260HIT突破! さんきゅ♪ 60000HITは年内だなあ。めでたし、めでたし♪ さて、2周年の2001年6月23日に70000HITを達成できるかな?

★右下のオヤシラズを抜歯した。私のオヤシラズは、まっすぐ生えていない。臼歯に向かって、真横に生えている。おかげで歯肉切開し、ドリルでオヤシラズに穴を開け、その穴へノミをつっこんでハンマーで割る、という大がかりなものだった。うー、辛かったよお。
 でも、もう1本、残っているんだよなあ、オヤシラズ。年内に残った1本も片づける。とほほ……


[44] 個性の正体(或失敗PART3) 2000-11-08 (Wed)

 さて、前回までは純粋な演技の話だ。
 プロ俳優志望者には、ここにもうひとつ、商品としての「個性」が問題となる。そして、ほとんどの志望者にとっての苦悩が、このプロ俳優における個性だ。
 この個性を考える時、これまた大事なことは解析することだ。ほとんどの志望者は漠然としすぎているから、なかなか答が導き出されないのである。

 まず、生まれついての個性。これは身体の大小、顔のつくりなどの外見である。
 これをどうこうするのは難しい。が、俳優に美人もブスもない。美人だけでつくられる作品などないのだから。
 下手にメイクに凝ると画一的な美人風にしかならず、かえって個性をなくしてしまう。

 そして、訓練や鍛練することによって磨かれる個性。これは声質などの準外見的なものである。わかりやすく評価されるものではあるが、訓練によって手に入れることが可能だ。各自が修業に勤しんでほしい。

 さて、最終的な問題は、演技の個性である。

 みんなは円空仏というものを知っているだろうか?
 円空という遊行僧が、ナタ1本で彫り上げた仏像のことだ。今も5000体前後が現存している。
 同じ人が、同じ木から、同じ道具で、同じ仏像をつくったところで、いつも全く同じものができあがるとは限らない。円空仏ほど、このことをわからせてくれるものはない。

 演技における個性も、また、この円空仏と同じなのである。
 同じ俳優が、同じホンから、同じ解釈から、同じ役を演じたところで、いつも全く同じ演技になるとは限らない。
 どれだけ「役に生きる」ことを追求したところで、完全に同じ演技をそっくりそのまま繰り返すことなどは絶対に不可能なのである。
 同じ人間ですらそうなのだから、違う人間なら違う演技になることこそが、自然なのだ。
 これこそが演技における個性の本質である。

 では、個性のない演技というものから、個性を逆算してみよう。
 個性のない演技とは、予測がつく演技ということでもある。
 観客からすれば「次はこうくるだろうな」「こうなってしまうんだろうな」というのが、数秒前から見えてくるような演技だ。つまり、役としての反応が準備されているということでもある。
 この手の演技は、解釈を意識し始めたばかりの頃の俳優に多い。
 解釈に則り、
 「次の台詞を受けたら、怒らなくちゃ」
 「今度の台詞は、悲しまなくちゃ」
 ……と演技しているのである。
 はっきりと言ってしまおう。
 そんな演技は、役に生きているとはいえないのだ。プログラミング通りに動くロボットと変わらない。ロボット=非生物であり、生きてはいないのである。
 つまり、演技における個性とは、これまた「役に生きる」ことから始まるものでもあるのだ。

 以前、こういう質問を生徒から受けたことがある。
「解釈って、突き詰めれば、いくつかしか成立しないものなんですよね? じゃあ、出てくる演技も解釈の数までじゃないんですか?」
 違う、違う、全然違う。
 ひとつの解釈から、たったひとつの演技が生まれないなんてことはない。
 いわば、左脳が主として働く解釈においては正解に近付くべく、条件に照らし合わせて選択していく作業が求められる。
 その逆で、右脳が主として働く表現においては、作品に広がりを出すために増やしていく作業が求められるのだ。
 ひとつの解釈から、ひとつの表現しか生まれないなんてことはない。
 ひとつの解釈から、無数の表現を生むこと。その過程においてこそ、表れるのが個性というものなのである。
 意地悪な言い方で悪いが、広げないから、個性が生まれないのである。
 表現を広げられない頭のカタさが、個性を出せなくなっている最大の原因なのだ。

 つ個性とは、予測を裏切ることである。予測されてしまっているかぎり、個性ではない。
 よくされる質問に「どうやって殻を破ればいいんですか?」というのがある。これまた、同じ。ひとつの解釈から、どれだけの表現を生み出すか、というのを続けるしかないのだ。
 「もう出ない。もう絶対に出てこない」というところまで、とことん追い詰められた時にこそ出てくるのが個性であり、殻を破るということなのである。
 逆に「私って個性的でしょ」とばかりにやってくれる演技のどれもこれもが、臭くて臭くてどうしようもないのは、それがただの癖でしかないからだ。なぜなら、そういう奴の演技は、個性といいながらも、予測がつくからである。

 以前から何度も言っていることだが、個性のない人間なんて者は、この世にはいない。
 みんな、それぞれに個性がある。
 一番勘違いしてほしくないのは、癖と個性をごっちゃにしないこと。そして、自我がイコール個性とは思わないことである。
 同じ動きをしたところで、それまでに積み上げてきた訓練によって、速度は変わってくる。同じ人間であっても、その日の体調や、精神状態によって違ってくる。
 いつも同じ反応ができるわけなど、絶対にないのである。
 まして、違う人間同士であれば、その違いはもっと大きくなる。
 それこそが個性の正体なのだ。
 個性とは、漠然とした一個のモノではなく、自分の中の複合条件の中において発生した現象なのである。
 だから、個性をつくろう、なんて思っても、無駄なのだ。
 個性はつくるものではない。
 それぞれの人間の内にあるもの、それが個性なのである。
 個性とは、失敗に失敗を重ねた末に、自分の内から引っ張り出してこなければならないものなのだ。
 癖から生まれた個性は、俳優の可能性をかえって狭める。
 計算からつくった個性は、演技を不自然なものにしてしまう。
 演技における個性を求めるなら、自分を追い詰めるしかない。自分の思う自分からいかに離れ、役に生きようとした時、隠しても隠しきれずに滲んできてしまうものこそが個性として出てくるのだ。

 さて、ここまでで個性の本質論はオシマイである。だが、これだけでは、また、理想論といわれてしまうな。
 マスコミ仕事におけるプロ俳優は、ここで「俳優としてのキャラクタライゼーション=自分で自分を演ずる」が必要になる。
 まず、最初に「自分の思う自分」と「他人から見た自分」のギャップを冷静に理解すること。
 よくいるよね、自分では似合ってると想いながら、自分の体型や肌の色、雰囲気とはかけ離れたファッションやメイク、髪型をしている人って。
 まずは自分を客観的に知ること、ここが大事なのだ。
 その上で、欠点を隠し、長所を際立たせること。つまり、自分に最良のものを選ぶこと。
 これが「俳優としてのキャラクタライゼーション」の第一歩である。
 そして、次のステップこそが「自分で自分をパッケージングすること」。つまり、戦略として自分というキャラの方向性を決め、戦術として自分というキャラを具体的に仕上げていくこと。

 でもね…… 最終的には、これらの努力は、プロダクションの営業方針であり、マネージャー個人の趣味で簡単に吹き飛ばされる。
 言っちゃ悪いが、個性を口走る人間ぐらい、個性を論理的には考えてはいない。どんな言い訳にでもつかえる万能薬として、個性という言葉を用いて、志望者や養成所生徒を煙に巻いているだけだったりする。
 プロダクションの営業方針といったところで、実はそんなに真面目に考えられてはいなかったりするんだよね。
 マネージャー個人の趣味は、本当に個人的趣味のなにものでもないんだよね。思いつきを思い込んでいるだけの世界だよ。
 つまり、その事務所であり、そのマネージャーの、ケースバイケースでしかないのが現実なんだ。
 だからこそ、実力なんだよ。
 ドングリの背比べで云々いっていたところで、営業方針や趣味には太刀打ちできないんだよ。
 「こいつは即戦力になる」と思わせるぐらいの圧倒的な能力がないから、個性で煙に巻かれるドングリとして扱われるだけのこと。 「演技がうまい」といわせる要素をキチンと具体的に考えぬいてごらん。
 そして、本当に、自分は演技がうまいと思えるかな?
 基礎的な面において、ほころびがないと言い切れる?

 そして、なによりも、営業上手で声優の仕事をするようになっても、それは幸福なことなのかな?
 それをやっていったら、最後はどうなってしまうのかな?
 ニコニコお愛想をつかうところから始め、セコセコと御機嫌伺いを続け…… その果てはいったいどうなるのかな?
 いくつかの養成所や学校の中には、セクハラ講師やセクハラ事務員、セクハラ・マネージャーが存在していることもある。放送局や音響制作会社、アニメ制作会社にもね。これは事実だよ。実際にいるんだよ。さて、お愛想と御機嫌伺いの行着く先はどこ?
 そして、講師やマネージャー、音響マン、アニメ制作者の中には、実力のある新人や若手を引っ張り上げたい人もいる。これもまた、事実だよ。さて、この人たちに可愛がられるにはどうすればいい?
 なによりも、みんなは、どちらに可愛がられたいのかな?
 どちらに可愛がられるのが、幸福なのか、よーく考えてご覧。

 おっと…… 個性の話が、ずいぶんと違う方向にいっちゃったな。
 どういう道を歩むかは、自分次第。
 そして、私がこのホームページで相手にしているのはどんな人たちかは、自分で考えてよね。


[43] 右脳と左脳(或失敗PART2) 2000-11-08 (Wed)

 人間の脳は、右脳と左脳にわかれ、その働きも違うといわれている。
 右脳は、情動や想像力などの精神的活動に関わるとされている。
 左脳は、計算や推理などの論理的思考に関わるとされている。
 演技そのものは右脳で行われる。
 しかし、解釈は左脳で行われる。
 明らかに矛盾しているし、二律背反でもある。
 かって、若かりし頃の私も、この矛盾に苦しんだ。

 芝居を始めたばかりの頃…… そう、演劇歴1〜3年ぐらいまでは、「勢い」の芝居が圧倒的である。
 発声にせよ、ミザンスにせよ、情感にせよ、マックス(最高値)でなければ、演技をしている実感というのはもてない。
 大声を出して、叫んで、ドタバタと動き回って汗をかき…… 初心者にとっては、これが演技である。
 だから、大掛かりな悲劇や、スラップスティックなコメディが楽しい。
 そして、受けることが、これまた、楽しい。観客の反応にベロベロに酔ってしまう。観客の笑いや拍手に我を忘れる。

 これらは悪いことではない。
 あくまでもステップであれば、だ。
 つまり、最初はともかく、いつまでも、これでは困る、ということである。

 私は、演劇初心者には、まず、2〜3分以内のエチュードから始めさせる。
 何度も何度もエチュードをやらせ、その中で舞台作法であり、情動というものを意識させる。
 私のエチュードは単純だ。
 ひとつのキーワードを与え、そのキーワードを「立てる」こと、制限時間は2〜3分とすること以外に制限はない。ジャンルも固定しない。コメディ、悲劇、日常…… なんでもかまわない。キャラクターも、老人だろうが、子どもだろうが、なんでもいい。設定も、現代だろうが、古代だろうが、未来だろうが、なんでもいい。
 本人がプランニングしたストーリー、設定、キャラクターを自由に演じればいい。
 そして、私が指導することは、本人が「やりたいこと」が、どうすれば、より観客にわかりやすくなるのか、という助言だけである。
 そうやって、人前で演技することに慣れさせ、演技することの楽しさを実感させるのが、私のやらせるエチュードである。
 私のエチュードに対する考えは、基礎中の基礎であるからこそ、誰にでもできなければならない。
 最初っからアレコレ求められてもできっこない。慣れるというレベルから始めなければしょうがないではないか、というのが私の考えである。

 私の教え方では、その先に解釈がある。
 ところが、この領域に至る志望者は少ない。それどころか、デビューしている新人や若手であっても、解釈力がないのもいるから頭を抱える。
 解釈は、演技表現を最終出力とした時の「式」に過ぎない。つまり、演技を引き出すための根拠というものだ。
 俳優における「ホンを読む」という行為は、読書とは違う。読書のように「あー、おもしろかった」では済まない。
 「絵姿」を想像しながら、ストーリーを理解すること、ドラマを理解すること、キャラクターを理解すること、そして、最終的にはテーマを理解すること。
 現実的には「解釈が大事」と口先では唱えながらも、「解釈とはなにか」を本当に理解している志望者は少ないのである。
 では、解釈を理解していない俳優が演技をするとどうなるか?
 ……暴走するのである。
 その場、その場のエモーションに振り回されるだけで、ストーリーを表現できない。ストーリーを表現できないから、ドラマも立たない。ドラマが立たないから、テーマも表現されない。キャラクターだって、思い込みからつくられているだけだから、その場での反応しかなく、結果として行動に一貫性のない“変人”にしかならない。
 すると、演出の言いなりになるしか、作品を仕上げられなくなるのである。

 さあ、ここで、また、考えなくてはいけない。
 解釈のない芝居は、ストーリーもドラマも、そして、キャラクターさえも表現できない。テーマなどもってのほかだ。ホンの意図を論理的に思考し、演技に根拠を持つこと…… つまり、解釈とは、完全なる左脳の作業である。
 では、役の気持ちになる、役に生きるということ、そして、役として反応することは? ……これらは右脳の作業である。
 この両立とは、いったい、なんなのか、ということだ。

 ここで大勢の志望者が悩む。悩んで、悩んで、悩み抜く。というよりも、ここで悩まない志望者に先はない。
 実は、答は簡単なのである。
 演技表現“前”と演技表現“中”において、つかう脳を切り替えればいいだけのことなのだ。
 つまり、演技表現前には、徹底的に左脳を働かせる。ホンに書いてある台詞の一言一句たりとも漏らさずに、全ての台詞に根拠をもつこと。それが左脳の仕事だ。
 この時、自分の役の台詞にだけ注目しているようではいけない。全ての役の台詞を解釈しなくてはいけないのである。
 そして、演技表現中においては、役に生きることを第一とする。自分ではなく、役として反応する。これが最も大事なことなのだ。役以外の部分…… つまり、自分で反応しているから、演技ではないのである。
 これらは二律背反の最たるものだ。

 「左脳と右脳を切り替えろ」といわれて、簡単に切り替えられるものなら、誰も苦労はしない。そう簡単に切り替えられない理由はなにか?
 それこそが自我であり、我執なのである。
 初心者の芝居は、自我のカタマリであり、我執の発露である。目立ちたい、認められたい、褒められたい…… という次元でしかない。
 そんな意識のままで「役に生きる」「役として反応する」ができるだろうか?
 解釈はいいのだが、役に生きられないという人がいる。これが前回、私が「とほほ」と思った生徒のことでもあるし、大勢の「それなりではあるんだけどねー」という善戦クンたちの正体だ。
 では、どうやって切り替えるか?
 これまた、順序立てればいいだけのことなのである。
 まず、リラックスすること。
 「芝居するぞー」「うまくやらなくちゃ」「失敗しないように」と肩肘をはらず、身体を、心をほぐす。この時に、いかに自我と我執から離れるかがカギとなる。
 そこからでなければ「集中=役に生きる」はできない。
 そして、実際の演技表現中には、意識の奥底に解釈があればいい。解釈を解釈として演じようとするから、役に生きられないのである。本物の解釈を掴むに至ったならば、自然に台詞がこぼれてくるものなのである。
 つまり、解釈が至る最高の領域とは、左脳の奥深く……無意識下で、右脳と共存することなのだ。
 役の気持ちから自然にこぼれてきた言葉、それが台詞なのであり、
 役の気持ちから自然に動いてしまう所作、それこそがミザンスなのだ。
 だからこそ、「役に生きる」の領域とは、俳優本人に演技をしているという実感は感じられない。
 そして、恐ろしいことに、この領域はコンスタントには突入できない。それはベテラン俳優であっても、だ。
 だから、俳優は一生が修業なのである。

 そして、個性の問題だが……
 「次回に続く」なのであった。


[42] 究極の選択 2000-10-28 (Sat)

 究極の選択クイズ!
 A/プライベートはすっごくイヤな奴だが、仕事はちゃんとできる奴
 B/プライベートは素晴らしい人格者だが、仕事はゼーンゼンできない奴
 さて、仕事で組むなら、どっち?
 プライベートで付き合うなら、どっち?
 愚問だよね。大多数の人は、「仕事ではAと組む。プライベートではBと組む」と答えるだろう。
 が、しかし、そうはいかない人というのもいる。「仕事もプライベートもBと組む」と答える人ね。

 これ、社会人として、責任ある仕事をしたことがあるかどうかの差だ。
 社会人にとって、仕事ができない奴というのは犯罪的ですらある。手間がかかるだけで済めば、まだ、マシ。やらなくていいはずの余計な仕事を増やしてくれたりする。
 “1人”として勘定するのではなく、“マイナス1人”と数えたくなるほど仕事ができないなんてのもいるぐらいだ。本来なら1人でできる仕事なのだが、そいつがいると3人いなければ仕事が終わらない。つまり… 1-1=0 1+1-1=1 という状態だ。
 仕事の上でこういう目に一度でも遭ったならば、「プライベートはどうでもいいから、せめて仕事だけは一人前にやってくれえ!」というのがわかる。

 「仕事もプライベートもBと組む」と答える人は、学生に多い。
 学生にとっての仕事とは勉強だから、勉強の出来不出来よりも、プライベートの方が大事という考え方だ。
 で、困ったことに、養成所や声優学校でも、こういう風潮がある。いや、マジで困ったことなんだよ。
 確かに、芝居づくりというのはアンサンブルであり、コラボレーションである。一本の作品を仕上げるために、まとまらなくてはならない、協力しあわねばならない、力を合わせねばならない。このことに異論はない。
 ただし、そのアンサンブルであり、コラボレーションは、作品を仕上げることが目的なのを忘れてはいけない。
 まとまるというのは、多数決に従うことではない。協力するというのは、特定の誰かだけに負担が集中することではない。力を合わせるというのは、仲良くすることが前提ではないのだ。

 芝居が下手なこと、そのこと自体に罪はない。
 本人がプロになれない、プロとなるには時間がかかるだけのことなのだから、放っておけばいい。
 問題は、自分が下手なことを自覚せず、上手になるための修練を怠っていることだ。演技表現の上手下手に関わる諸要素であるところの発声・滑舌・解釈力・開放・集中力などに問題があるのを自覚できないのは、根本的な姿勢に問題があるという証明である。
 プロの世界では、そんな愚か者はキャスティングされない。その結果だけで判断すればいい。
 しかし、“養成”所であり声優“学校”となった瞬間から、愚かであったとしても作品づくりの中に組み込まれる。だから、愚か者でさえも、自分に発言権があり、裁量権があるなどという勘違いを起こす。

 違うんだよね、考え方が根本的に。
 声優に、プロやアマの区別はない。あくまでもプロ俳優のマスコミ仕事なのが、声優というものである。
 プロなのだよ、プロ。
 そして、あくまでも仕事なのだよ、仕事。
 いわば、養成所であり声優学校というのは、職業訓練校なのである。そして、俳優という職業にとっての仕事とは、演技にほかならない。
 職業訓練校において、自らの位置付けを誤り、仕事の本質を忘れてしまうようでは、本末転倒というものだ。
 ここらへんの認識が甘い奴が多いから、「仕事はできなくても、プライベートはいい奴」を許してしまい、自分自身の取り組み姿勢さえをも曖昧にしてしまう。
 だから、養成所や声優学校でやる舞台は、“発表のための発表”というトンチンカンなものとなる。そして、“稽古のための発表”となって、ただただガンクビ揃えて集まることを目的とし、懇親の延長線上のような取り組み姿勢になるのだ。
 “発表のための発表”で、どうするのよ? その時の自分が成し得る限りの良い舞台を提供しようという意志をもたない奴は、舞台に関わってはいけないのだ。たとえ、初心者であろうとも、観客あっての舞台という発想を、なぜ、もてないんだろうね。
 “稽古のための発表”ともなると、勘違いも甚だしい。稽古は発表のためにあるんだよ。発表する日に向かって、質の高い稽古をすることが大事なのである。
 なのに、自覚なき、努力を忘れた末のヘタクソが混じると、レベルも意識もドンドン下がっていく。それでいてアンサンブルだ、コラボレーションだ? アンサンブル演劇の成立すら理解していない奴がよく言うよね、ったく。

 百歩譲って、ヘタクソでもかまわないよ。
 下手なら下手なりに、役者としての自分自身の性能を向上させるのが大事なことなのだ。
 たとえ、身内相手の所内発表であろうが、舞台にヘタクソが上がるのは、それだけで罪なのである。せめて、罪を少しでも軽くしたいという気持ちが微塵でもあるなら、ちょっとでもいいから成長をしてほしい。成長のための努力をしてほしい。
 言い訳を考えたり、逃避する前に、自分に直面しよう。
 自分は下手なのだという自覚。その下手とは、なにに起因するのかという思考力。そして、弱点と欠点の解消のための努力につぐ努力。この過程こそが、成果ある成長というものである。
 決意と覚悟が生んだ成果と成長を、きちんとかたちにするのが舞台というものである。

 究極の選択クイズ第2問!
 A/プライベートはチャランポランだが、演技に対する取り組み姿勢はとっても熱心な奴
 B/プライベートはすっごくいい人だが、演技に対する取り組み姿勢がチャランポランな奴
 ……さて、君がプロ俳優のマスコミ仕事である声優の志望者として、いっしょに舞台をやりたい奴はどっち?

 この選択は間違えるなよ。
 人生が狂うぞ。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

☆56000アクセス突破! さんきゅ♪


[41] 或失敗 2000-10-23 (Mon)

 世の中、やりたいことだけやっていて済むものではない。
 まずは、やるべきことをやってからでなくては、やりたいことはできないものだ。
 これは演技においても同様である。
 なにはともあれ、まずは、やるべきことをやらねばならない。

 たとえば、身体能力でいえば、「立つ・歩く・座る」といった人間の基本動作を可能とする能力、全身をつかっての発声を可能とする能力、舞台上で自由自在に活動するための能力などなど…… 高いレベルでの柔軟性・瞬発力・持久力・心肺機能を必要とするのが演技表現である。
 たとえば、たった一言の台詞を成立させるにも、山ほどある「やるべきこと」をクリアーせねばならない。戯曲におけるストーリー、ドラマツルギー、キャラクタライゼーション、テーマを一言一句たりとも漏らさず解釈し、論理的に整合するまでトコトン読み込む。
 その他、発声、滑舌といった基礎的な「やるべきこと」というのが、俳優には山積みとなっている。

 「演技とは説得の芸術である。俳優は自身が納得したものでなければ、観客を説得することはできない」
 ……20世紀を代表するシェイクスピア俳優サー・ローレンス・オリヴィエの言葉だ。
 この場合の納得とは、解釈における納得を指している。オリヴィエは「解釈に納得していない芝居をするな」「納得いくまで解釈しなさい」と戒めているのだ。
 が、しかし、時として俳優は、この納得の中身を勘違いする。納得のベクトルを解釈ではなく、表現に求めてしまうのだ。
 つまり、オリヴィエの名言を「自分が納得する表現」としてしまい、それこそがなによりも尊い、と。
 この甚だしい勘違いは、本格的に芝居をやりだして3〜5年で最もよく表れる。
 ただただガムシャラだった1年、2年を過ぎ、そこそこ基礎能力が上がり、そこそこ解釈できるようになり、そこそこソレっぽく芝居らしきものを表現できるようになる時期というやつである。
 恥ずかしながら、私にも覚えがある。

 私の時は、こうだった。
 まず、自分で構築した芝居を見せた。そして、それを演出に直された。何度も何度も駄目出しを受け、自分の芝居から引き離されたその瞬間、演出に「そう、それだよ」と言われたのである。
 まだ十代だった私は、半ば憮然とした。「こんなの納得いかないよ。演技の実感が全然わかねぇじゃねぇか」と。無論、言葉にはしなかったが、その思いは周囲に感じ取られたことだろう。
 あれから15年以上経った今、あの時の私と全く同じ間違いを、先日の安達ジムで見た瞬間、思わず噴き出しそうになってしまった。
 さて、若き日の私の失敗、そして、先日、安達ジムで見た同じ失敗。これはどういうことであろうか?
 答は単純である。作品を創るスタッフとしての「やるべきこと」よりも、自我から生まれた「やりたいこと」を優先させていただけのことなのだ。その結果として、表現が曇ってしまっていた。
 自我から生まれたに過ぎない「やりたいこと」を優先させてしまっていたために、表現のルーツである解釈が歪んでしまっていたのである。

 台詞が棒になってしまう原因の第一は発声能力であり、音感である。このふたつは純然たる技術に過ぎない。それなり以上の努力によって、ほとんどの棒台詞は解消される。
 が、中には、解消されない棒台詞というのもある。それは情動に問題がある場合だ。そして、この場合の「情動に問題がある」は、“治療”が極めて難しい。なぜなら、「精神の開放と集中」に問題があるからだ。
 先進的な演劇人であればるほどに、この「精神の開放と集中」にはうるさい。過激な意見の中には「満員の観客の前、舞台上で素っ裸になれるぐらいの自己開放」というやつを求める。中には、そういう精神開放がメソッドだと教える変態指導者もいたりして、素っ裸になればメソッドを体得したと思い込む変態俳優もいるんだから、困ったものである。素っ裸にさえなれば開放ができているというのであれば、ストリッパーは、皆、メソッド俳優ということになってしまうではないか。

 精神の開放、自己開放の正体とは、自我の自覚から始まり、演技表現においては自我を脱ぎ捨てることにある。
 精神開放、自己開放とは、自我からの開放に他ならない。これを私は「我執を捨てなさい」と常々いっている。
 人は「自分の思う自分」に制限されて生きている。自分で自分を規定し、その中で行動している限りの安定というやつに寄り掛かって日常を過ごしているものなのだ。その自分による自分の規定こそが、自我というものなのである。
 自我という存在自体はけっして悪いものではない。その自我が原因による問題さえ発生しなければ、それはそれで幸福な生き方ともいえよう。
 ただし、演技表現において、自我は致命的欠陥となる。自我を強く残したまま、どんな表現をしたところで、役がきちんと俳優の内面に息づかないからだ。
 演技における「精神の集中」とは、俳優個人の自我を引き剥がした中に、ホンから解釈した役を植え込み、役以外の反応をなくすということなのである。
 俳優個人の自我が残っている限り、本人は役として反応してるつもりでも、それは役としての反応ではなく、自我から生まれた俳優本人の反応に過ぎないのである。
 それでは演技の本質である「役に生きる」ことは到底不可能なのだ。
 若き日の私の失敗、そして、先日の安達ジムにおける生徒の失敗とは、自我を残しているからこそ生まれた失敗なのである。つまり、演技の実感がわかないという不満が生まれたこと自体、自我を強く残している証明ともいえよう。

 冒頭の言葉に戻る。
 純粋に演技を究めようとしたならば、演技に「やるべきこと」「やりたいこと」といった区別はない。俳優としての一生涯を「やるべきこと」のみに賭けても足りないほどである。
 まずは、このことを理解できる次元に到達してほしい。このことを、口先ではなく、全身全霊で理解することが、演劇人としての王道であり、正道というものである。
 その上で、なお、「やりたいこと」を求めるしたたかさを持ち合わせているのが、プロ俳優というものなのである。そのしたたかさが生むものこそが、個性なのだ。
 されど、王道であり正道を理解せずして、したたかさであり個性を追求してはならない。ハッキリ明言しておく。それは破滅の道だ。まあ、ろくなレベルには到達できない。

 この二律背反をギリギリの線で生きていくことこそが、プロフェッショナルとアマチュアの違いだということを忘れないでもらいたい。


[40] 15年ぶりの再会 2000-10-17 (Tue)

 15年ぶりに懐かしい人に会ってきた。
 その名は守輪咲良さん。ニューヨークのアクターズ・ステューディオにて、リー・ストラスバーグに師事した、日本における数少ない正統派メソッド指導者だ。
 ちなみに15年前は、生徒だったんだよ、私。あはは。
 当時、サクラさんはアメリカから帰国したばかりで、ひょんな縁からメソッドを指導していただいた。その後、ひょんな縁とサクラさんの関係がイロイロあったので、私も疎遠となっていたのである。
 が、ここ数年、開放や集中の訓練を希望する生徒を「サクラさんところに行け。日本で、メソッドを実用的に教えられる指導者はサクラさん以外にいない」と次々送り込んでいるうち、私の存在がついにバレてしまって、お誘いをいただいたというわけ。

 それにしても、変わらないよね、サクラさんってば。
 その昔は、しょっちゅうトレーニング・ウェア姿だったんだけど…… ショートカットの髪型も、優しい性格も昔のまんまだった。そう。ホント、優しいんだよね、サクラさんってば。
 今、サクラさんところはシェイクスピア作『十二夜』で稽古をしているのだが…… 私は講義の途中から特製エモティオ・キャップを被って、他の人からは眼を見えないようにしていた。だって、眼光鋭い殺気モードに入っちゃったんだもん。
 サクラさんの演出は、私と同じ傾向のものだ。「ここはどういう意味?」と俳優に質問していき、俳優の解釈をより明確化させていく。そうやって、俳優の内にある「やるべきこと」「やりたいこと」を自覚させ、俳優個人の表現活動を尊重しようというものである。
 が、そのダメだしを受けている俳優たちのお行儀がね〜。あとでよくよく聞いてみたら、サクラさんところで初めて芝居をやったという人らしいんだけども。常識の範疇で考えて、ありゃ、指導を受けている人間の態度ではないんだよな。
 だいたい、わかってんのかねえ。サクラさんにタメグチをきいていた彼らは。日本でメソッド指導者を名乗る演劇人は多いが、守輪咲良のレベルに至っている人などゼロだということが。
 本場アメリカ以外で、サクラさんのレベルまでメソッドを修業した人はほとんどいないのだよ。しかも、メソッドの根幹である開放と集中を安全に指導できる人間といったら、サクラさん以外には皆無といっても過言ではないのになあ……
 優しいサクラさんは、なんとも思っていなかったようだが、かっての生徒であり、今は自身が指導者の私としては、かなりムカムカきていたのは事実である。価値がわからんというのは、ホント、恐ろしいことだ。崇めろとはいわんが、常識の範疇におけるお行儀ぐらい備えようね、ったく。
 ま、唯一の救いが、私が送り込んだ生徒たちは、礼儀作法の面でサクラさんに「しっかりした若い人たちだなあ」と思ってもらえていたということだけどさ。

 そんなこんなで15年ぶりの再会ということもあって、演劇界の裏側などもまじえて会話しつつ、酒杯を傾けたわけである。
(同席した名村は、感心したり、肝を冷やしたり、と大変だったろうなあ。この業界、狭いんだよん。うけけ)
 で、今後は演劇活動において、サクラさんとお互い助けあっていくことで話がまとまった。まず、私が、秋の桜塾のセミナーで解釈術の講義を行い、以後も助け合っていきましょうね、と。
 いやぁ、願ってもないことである。
 スタニスラフスキー・システムについては一家言どころではすまない私だが、こと、アクターズ・メソッドとなると、なかなか一筋縄ではいかないというのが本音である。
 メソッドも概論までは教えられるが、開放と集中の領域については、なまじサクラさんという偉大な指導者を知っているがゆえ、自分で指導するのは二の足を踏んでいたのが事実である。
 それが、当のサクラさんのご協力を仰げるというんだから、まるで夢みたいな話だ。って夢だったらどうしよう? つねってみるか。いてぇな、バカヤロー。夢じゃないや。ヤッホ〜♪

 それにしても、今年はイロイロあったなあ。
 エモティオの設立から始まり、バンタン声優科のプロデュース、君塚&植草を俳優フィットネスの世界に引きずりこみ、そして、ついには、あのサクラさんか……
 まあ、儲からない世界で、半ばボランティアのように一所懸命やっているんだから、これぐらいのラッキーがあっても許されるよなあ。
 まあ、予測できないほどに事態がでかくなりすぎたという感がなきにしもあらずなのだが……
 いつもの結論、がんばるしかないんだろうね。っちゅーか、がんばります。

守輪咲良さんのホームページ
http://www.hi-ho.ne.jp/sakura-no-tayori/

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

☆50800アクセス突破! さんきゅ♪

☆先週の勝田基礎科はおもしろかったけれども疲れたにゃあ。30分前に入って、延長30分近くやってるんだもん。なんだかんだで3時間半の講義…… そりゃ疲れるよなあ。
 さて、次に勝田基礎科を講義するのは、11月2・3・4・5日。今回はバタバタしてしまって、外部の方の見学をキチンと了承とれなかったのですが(ごめん)、次回はちゃんと許可とろうと思います。詳細は後ほどnewsにて。よろしく♪

☆バンタン電脳情報学院・声優コースで1日体験授業(無料)を行います。興味のある方はフリーダイヤル0120-51-0505へ電話するか、またはnob@vantan.co.jpまでメールしてみてください。(定員に達していたらごめんね)


[39] いっしょにやりたい? 2000-10-11 (Wed)

 月曜日、エモティオの稽古を公開した。といっても、前々から予定していたものではない。なんとなーく、そーゆー流れになってしまっただけである。それでも20人近い見学者がいたんだけどね。
 今、エモティオでは、18期安達ジムと同じく『奇跡の人』をテキストにしている。だから、ジム・メンバーの一部については、エモティオの連中といっしょに読み合わせをさせてみた。

 てゅぐ生とコ゜〜(鼻濁音で読んでくれ)は…… 緊張し過ぎて玉砕。なんで、そんなに緊張するんだろうねー。思いっきりやればいいだけじゃん。ったく、度胸がねぇんだよなぁ、このオッサン2人組は。
 やっちゃんは、ほぼ互角。まあ、そりゃそうだよな。元々はコパの同期なんだから。俳協演研にいた実績はダテじゃない。でも、コパにいわせると緊張していたらしい。だから、なんでだってーの。
 キバラお嬢様も緊張しまくり。腹式呼吸をうまく使えず、苦しそうだったなあ。もっと伸び伸びとやればいいのに。
 アリリンは、凄かった。こいつ、まだ高校2年生なのに、集中力が高いんだよなー。これで発声がもっと良くなったら…… いやぁ、楽しみである。
 特筆は、デビルトモ! ヘレンの母であるケート役だったのだが、アニー役のマサヨとがっぷり四つに組んだ。声も伸びやかに出始めているし、滑舌は申し分無いし、いやはや大したもんである。
 終わってからユキンコをとっつかまえて「デビル、どうだった?」と聞いたら、「ひぃ〜! 追い付かれる〜」と泣きを入れていた。半分は冗談だが、半分はマジなんだよな、こいつの場合。
 特にデビルについては、去年末の『カム・ブロー・ユア・ホーン』での印象が残っていたから、エモティオの連中にも成長度がハッキリわかったのだろう。
 ナベやコパは「いっしょに芝居やりたいですねえ」と感心してたしね。

 役者にとって最高の褒め言葉とは「いっしょに舞台をやりたい」である。
 私は、今でも、白石文子ちゃんとの共演だったら、自分も役者に戻ってストレートプレイの芝居をやりたい。または文子ちゃんには、自分の書いたホンで源氏物語の六条をやってもらいたい。
 劇団ムーンライトの和田みちるも、いっしょに舞台をやりたくなるタイプだ。みちると動きまくるスラップスティック・コメディをやったら楽しいだろうなあ。
 ナベは…… そうだなあ、こいつが40歳を過ぎて、今より百倍は上手になったら、ナベのために、ひとり芝居の戯曲を書いてやりたいなあ。百倍うまくなったらね。
 コパには、あと10年後くらいに私の書いた戯曲を演出させたい。うーん、でも、10年じゃ無理かなあ。まだまだアブラっ気が多いからな、コパも。
 リョーコとマサヨのふたり芝居ってのもおもしろそうだよな。ブラックなコメディでね。リョーコに思いっきり意地悪な役をやらせ、マサヨには地のままの天然ボケを…… 楽しいだろうなあ、きっと。
 シンタが40歳を過ぎたら、おしゃれな芝居ってのをやらせてみたい。冴えない中年男のロマンチックな失恋モノみたいなやつ。なにはともあれ、まずは滑舌を今の1万倍は良くなってもらわねば。
 ユキンコ、ヘロミ、カオリン、ハタケヤマには、子ども向けの朗読をやらせてみたい。でも、この4人だと子どもの中に埋没するなあ。
 ……と、まあ、夢想するのは、ひじょうに楽しいものなのである。
 しかし、この夢想を侮ってはいけない。真剣に願い続け、実現の為の努力を惜しまなければ、いつの日にか現実となる。

 芝居には、「やらなければならないこと」と「やりたいこと」のふたつがある。
 発声、滑舌、解釈…… これらは「やらなければいけないこと」である。どれひとつとして欠けてはならない。
 が、演劇とは、プレイである。俳優の中に「やりたい」という気持ちもなくてはいけない。
 そして、その「やりたい」という中には、「いっしょにやりたい」というのも含まれているのを忘れてはいけない。
 敬意を胸に抱いた上での「いっしょにやりたい」という言葉がなければ、俳優人生は哀しいものである。
 台詞を、受ける、かける。これは相手役あってのことだ。かけやすい、受けやすい、そう思わせるだけの能力がなければ、「いっしょにやりたい」と思ってはもらえない。
 そういった意味で、勝田卒業生であるエモティオの連中は、デビルトモの能力を認めたのである。

 しかし、もっと肝腎なこともある。
 「あいつとは、いっしょにやりたくない」と思われないようにすることである。
 台詞の受けかけといった、やりやすさ、やりにくさのレベルではなく、「芝居じゃねぇよ」ってのじゃ困る。
 また、日頃の素行も問題になる。役割分担から逃げ回って、オイシイところばっかり持っていくような奴とはやりたくないよな。

 みんな、「いっしょにやりたい」と思われるような、そんな役者になってよね。


[38] 省エネ 2000-10-08 (Sun)

 バンタン電脳情報学院声優科では、ひとりエチュードを徹底的にやらせている。本科はもうすぐ戯曲に入るが、土曜クラスはしばらくひとりエチュードが続く。
 私のやらせるひとりエチュードは、生徒本人が99%つくるものだ。
 たとえば、今、やっているものは、
「目下の人間に説教をしている。相手の反論に対し、『勝手にしなさい』といって部屋を出る」
 これ以外の指示はない。状況、自分の演ずる役、相手、説教の内容などは、全て生徒が考える。
 そうやって生徒の「やりたい」気持ちを育て、演出の視点で「やらねばならない」ことを教えていく。
 少人数だからこそできる、なんともノンビリしたやり方といえよう。

 さて、今回の課題では、色々な設定が出てきた。
 友だちと旅行に行きたいとせがむ中学生の娘を叱る父親役。
 バイトもせず小遣いばかりせがむ高校生の弟を叱る兄役。
 娘に自分の考えを押し付けて叱る“おためごかし”の母親役……

 偶然、似た傾向のエチュードを組み立てた2人の生徒がいた。
 ひとりは、望まぬ妊娠を、安易に堕胎で解決しようとする後輩を叱る先輩役。
 もうひとりは、その場の勢いでエッチしてしまった友人を叱る世話焼きの役。
 どちらも、生徒本人の経験を元にしたものらしかった。
 芝居的な駄目出しをした後、私が「ま、いいんだけどね、そんな馬鹿は」とこぼした時、『勢いでエッチ』のエチュードをやった高校3年生の生徒が「えーっ! いいことなんですか?」と言ってきた。
 慌てて「いや、どうでもいいの『いい』だよ」と付け足した。
「もちろん、俺の生徒がそんなことやったら、叱るよ。いや、怒るな。『なに、考えてやがんだ』ってね。でも、その友だちって、俺にとっては顔も知らない赤の他人だもん。その人を、わざわざ叱ったり、怒ったりはしないってこと。どうでもいいんだよ」

 で、いい機会なので、叱る気持ちについて説明することにした。

 人は、私を短気だという。
 確かに、私はすぐにカッとなるし、ガオーッと怒鳴る。
 ただ、ほとんどの場合、100%本気で怒っているわけではないから、パッと発散してしまえばそれで済む。本人としては、6割ぐらいしか怒ってないつもりなのである。
 その6割であっても、普通の人たちの激怒か憤激に相当するとは、よくいわれる。だから、3割も怒っていない“警告”や“注意”程度のものであっても、「怒っている」とされるようだ。
 が、自分で言うのもなんだが、これでも、かなりおとなしくなったのである。我ながら丸くなったと思うのだ。「こんなんやってられる