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◆マリヴォーについて

 

ピエール・カルレ・ド・シャンブラン・ド・マリヴォー
Pierre Carlet de Chamblain de Marivaux 
(1688-1763)


<<とりあえず、マリヴォーって何者??>>


マリヴォーは、18世紀を代表する劇作家です。


パリのサン・ジェルヴェ教区で生まれ、
幼少期をリオンで過ごしました。
弁護士を目指して勉強するかたわら、
文学に興味を持ち、
戯曲や小説を書くようになりました。


彼の作品独特の言い回しは、
“マリヴォダージュ”
と呼ばれています。




■ 生い立ち


 ピエール・カルレ・ド・シャンブラン・ド・マリヴォー(Pierre Carlet de Chamblain de Marivaux)は、1688年2月4日に、パリのサン・ジェルヴェ教区(セーヌ左岸、ソルボンヌの近く)に生まれました。財務官の父は1700年ごろリオンの造幣局長となり、マリヴォーは幼少期をその地で過ごしました。その後リモージュ(パリから南西へ約400キロ)へと移ります。

 1705年、マリヴォーが17歳の時に、彼はある美しい令嬢に心惹かれました。彼女の、自分の美しさに対して無関心な様子が、マリヴォーには魅力的に映りました。しかし、のちにそれを裏切る行為に出会い、マリヴォーは彼女に幻滅を感じてしまったのです。このことがその後、人間性と人間の生き方などを探求する――特に女性心理を分析してゆくという、彼の作家活動に影響を与えました。

 1710年ごろパリに出ると、司法官や弁護士などの家柄の長男であったマリヴォーは、始め弁護士になる勉強をしていました。しかし1712年には、法律の勉強よりも文学に興味を持ち、文筆に親しむようになったのでした。
 彼はリモージュで最初の喜劇『慎重で公正な父親』を出版しました。同じ年の末には小説『ファルサモン、またはロマネスクな狂気沙汰』(1737年出版)を執筆し、その後には『同情の驚くべき結果』(1713-1714年出版)、『戯作テレマック』(1714年執筆、1736年出版)、『戯作イーリアス』(1716年出版)などを書きました。
 また、社交クラブに出入りを許され、当時盛んであった「新旧論争」では新派の主領格であるフォントネルやラ・モットに認められました。そしてその人々の支援者であるランベール夫人やタンサン夫人のサロンに出入りすることを許されたのでした。

 1717年にマリヴォーは、コロンブ・ボローニュという5歳年上の女性と結婚しました。この頃から『メルキュール・ド・フランス』誌に『パリ住民についての書簡』をはじめとした、社会、文学、女性などについての評論を発表しはじめます。

 1720年3月には、シュヴァリエ・ド・サン・ジョリーとの合作で、喜劇『恋と真実』がイタリア劇場で上演されましたが、この公演は失敗。しかし、10月には喜劇『恋に磨かれたアルルカン』が上演され、成功を収めたのでした。これによって、マリヴォーの喜劇作家としての地位が定まったのです。

 この成功とは裏腹に、同じ年の1720年、スコットランド人ジョン・ローの銀行破産事件で、マリヴォーは父の遺産と夫人の持参金の大部分をなくすという悲劇に見舞われます。幸か不幸か、彼は文筆で生計を立てなければならなくなりました。しかしながら、経済的には死ぬまで恵まれなかったようです。

 彼にとって、1742年にアカデミに入るまでの20年間が、最も創作活動の盛んな時期となりました。彼の主要作品である『恋の不意打ち』、『二重の不実』、『愛と偶然の戯れ』などはこの時期に作られています。

 1742年、マリヴォーはアカデミの会員となりましたが、それまでの彼の華やかな才能を振るうこともなく、わずかに論文や戯曲を発表するのみでした。
 アカデミ会員となった以降の彼は、気難しく、ひがみ根性の強い、とても扱いにくい老人となっていたようです。彼をこのように変えてしまったのは、文筆活動を控えた彼の自制の態度、この頃は既にマリヴォーの時代が過ぎていたこと、最愛の娘が修道院に入ったこと、彼自身の老いなどの事情から来ているようです。
 そんな彼を慰めていたのは、老嬢サン=ジャン嬢との友情でした。マリヴォーは晩年、サン・トノレ街の自身の家を去り、死ぬまでリシュリウー街の彼女の家で暮らすようになりました。

 1763年2月12日、死去。享年75歳でした。


■ 主な作品


●『恋の不意打ち』

 三幕散文喜劇。1722年にイタリア人劇団が初演しました。レリオと伯爵夫人は過去の経験から、決して愛し合わないと心に決めます。しかし、男爵の登場でぐらつき、愛し合うようになるというストーリー。
 出世作『恋に磨かれたアルルカン』に続いて成功させ、マリヴォーの喜劇作家としての地位を定めた作品。『恋に磨かれたアルルカン』では、まだコメディア・デラルテ(※)の所作事が生かされていますが、この『恋の不意打ち』ではマリヴォー特有の主題と手法がはっきりと打ち出されたのです。上演も成功し、彼の劇作家としての地位を固めました。

コメディア・デラルテ …16世紀半ばから17世紀にかけて全ヨーロッパに巡演波及した、大衆的即興仮面劇。台本はなく筋書のみで、細部や台詞は俳優にまかされて上演されました。役柄とそれに伴った性格が決まっており、その役の型に応じた半仮面と衣装を着けて演じられました。


●『愛と偶然の戯れ』

 三幕散文喜劇。1730年にイタリア人劇団が初演しました。ドラントとシルヴィア、更に二人の召使い達が互いに素性や心情を隠し、外見と感情を二重に偽装して繰り広げられる恋愛劇。それを段階的に剥ぎ取ることで各々の登場人物を仮相から実相へと徐々に引き出していきます。このフィクション抜きでは到底味わえなかった強烈さで、彼らに真実の感情を発見させるのです。


●『偽りの告白』

 三幕散文喜劇。1737年にイタリア人劇団が初演しました。この作品の葛藤は嘘から出発しています。主人公ドラントの以前の従僕デュボワは、現在仕えている未亡人・アラマントとドラントを結婚させようと企んでいました。デュボワは罠の仕掛け人、アラマントの母親・アルガントは真実を暴く告発者なのですが、果たしてどちらの手段が有効なのでしょうか。主人公、脇役を含めてここに繰り広げられるのは、嘘と真実の華麗な弁証法なのです。


●『マリヤンヌの生涯』

 1731〜1741年に書かれた、マリヴォーの小説の代表作です。馬車の事故で両親を失い、幼い時から孤児となったマリヤンヌが、地方の司祭の妹に育てられ、育ての親の死とともに1人でパリに出、恋あり、誘惑ありの生活を切り抜けていきます。他の劇作にも見られるように、心理分析の繊細さと正確さが評価されていますが、更にこの作品では、当時の風俗をきわめて写実的に描写しています。




■ “マリヴォダージュ”とは?


 恋愛心理の機微を細やかに描写した独特の言い回しや洗練された文体――これらマリヴォー作品の特徴をさして、“マリヴォダージュ”と呼ばれています。
 当時としてはいわゆる格調高い文学語ではなく、優雅さを競う社交界の日常語に近かったようです。といっても、マリヴォー劇の文体は比喩・形容語に凝る飾り立てられた文体ではなく、“語彙”の面から見れば極めて簡素と言えます。

 ヴォルテールはじめ同時代の識者は一般に彼の文学に厳しく、マリヴォダージュという語も軽蔑の呼び名として用いられていました。生前のマリヴォーは、批評家より観客に愛された作家でした。彼が評価され始めたのは一世紀前からです。

 彼の劇の独自性は、実際に起こりそうな心の動きを描くという、高度な内面劇を喜劇のジャンルで実現したこと、独自の文体、すなわち対話そのものの自律性が劇的運動性を生み出していく真に演劇的な言語を創造したことにあります。

 しかもマリヴォーの作品では、喜劇の中に切実で真面目な感情が織り込まれており、終始喜劇仕立てではないという特徴があります。登場人物自身が面白おかしくばかばかしい人物なのではなく、彼ら自身はあくまでも真面目で、教養も見識もある人物として描かれています。滑稽なのは彼らのシチュエーションと、そのシチュエーションから生まれる彼らの矛盾した感情の衝突なのです。マリヴォーは彼らの苦悶を正面から描き、観客・読者がそれらに共感できるようにしています。

 また、伝統的な喜劇では、恋愛感情そのものは出発点からあり、周りの環境や状況がその障害となって物語が進んでいきます。しかし、マリヴォーの作品では、それらを終着点とし、愛を受け入れ告白するまでのプロセスが、内面劇として展開されていくという点も特徴として挙げられます。

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