![]() エチュードの基本 |
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さて、ここからがやっと演技らしきことの話になる。が、あくまでも「らしきもの」なのだが… 私が勝田声優学院にしか教えに行かないのは、大きな理由がある。それは、勝田には「演技の素人を、役者へとステップアップさせるカリキュラム」が存在しているからだ。 もし、勝田で、1年目の頭から長篇戯曲をやって、発声や滑舌、アクセントをないがしろにしていたら、私は絶対に教えには行っていないであろう。 さて、エチュードである。エチュード(etude)とはフランス語で研究、習作、練習曲、練習用の作品という意味だ。演劇の世界では、数分で終わる数行程度の台詞であったり、20分程度で終わる練習用戯曲をいう。 ここで君たち演技の素人が(しつこいようだがアマチュア経験者も含めて素人である)最初に意識すべきは次の4点である。 1・示すこと 演技とは演技表現だ。表現とは「表す(内面を示す)×現す(外的に認知されるよう示す)」。つまり、示されていない表現は、表現ではない。示されてこそ、表現である。 ここを勘違いして「自分では示したつもり」になっているのが、もっともタチが悪い。示されていなければ演技表現ではないことを頭に叩き込み、どうすれば自分の演技プランを示すことができるかを考えに考え抜いてほしい。 2・倫理を身につけること このHPにあるスタニスラフスキー研究でもいずれ明言するが、演劇とは集団芸術だ。その集団には、演出という最高責任者を頂点とする序列があり、その序列が集団に秩序をもたらしている。秩序なき集団に、倫理は存在しない。そして、倫理なき集団はただの烏合の衆と化してしまうのみ。 君たちはまず、演出の言葉を素直に受け入れるピュアな精神状態をつくらねばならない。根拠なきプライドから出てきた言い訳など、もってのほかである。人生を何十年とかけて芝居にかけてきたプロフェッショナルに敬意を払うのが、役者が最初に備えるべき倫理なのである。 たかだか数年、アマチュアの仲間同士で内輪受けの芝居をやってきた若造が何を言っても、そんなものは無意味だ。講師に嫌われ、効率良く学習する機会を失うのが関の山だ。 3・舞台ならではの作法を身につける 端的に言えば「ケツを向けない」の一言。これは「示すこと」にもつながるが、観ている人たちにわかりやすく自分の演技を示すということでもある。 演技未経験者は、ここでつまずきがちだ。未経験者の頭の中にある演技とは、テレビや映画という編集された映像の中の演技であることが多い。こないだまで普通の人でしかなかった女の子であっても、テレビや映画では演技らしきことができているように見える。これはキャメラワークと編集がつくりだしてくれた演技なのである。つまり、タレント自身の実力ではなく、監督とキャメラマン、編集さんたちのおかげなのだ。 それら映像作品に比べ、舞台では、役者本人の力で示すのが全ての前提となる。その演技には、ハコ(公演場所)のサイズの違いによって、演技の質…大きさや濃さが異なってくるのだ。 濃い芝居ができる役者、大きな芝居ができる役者は、演出の制御によって、薄い芝居も小さな芝居もできる。が、薄い芝居や小さな芝居しかできない役者はそれまでなのだ。これぞ役者とタレントの違いである。 「わざとらしい」とか「芝居クサイ」という照れや思い込みを捨てて、舞台における演技というものを身につけること。それが基本である。 4・観察力を磨き、記憶を鍛える やってみればわかるのだが、たかだかコーヒー一杯を飲むというエチュードすらできないのが、演技の素人というものである。 何ももたない状態で、コーヒーを飲むという所作をやってみたまえ。 コーヒーカップの大きさ。取っ手から飲み口までの距離。取っ手を握ってから口元に運ぶまでの間に、どの筋肉がどのように緊張弛緩し、関節はどういう角度で動くか。その動きは、どの程度であったらこぼさないか。口元にまで運んだら、その温度によって唇の尖り方は変わるのではないか。どこまでカップを傾けると、コーヒーは口の中に流れ込んでくるのか。最後の一滴を飲み干すには、どこまでカップを傾けているのか。 これらの全てを観察・検証し、記憶の中に叩き込んでおかなければ、エチュードの中ではコーヒーすら満足に飲めないのだ。 自分の日常の全てを観察・検証し、記憶の中に叩き込むということ。そして、その記憶をいつでも舞台上にて再現できるということ。その訓練をするのがエチュードなのである。 なにはともあれ、演劇未経験者の君は、ここまでを意識できれば十分だ。細かいところは指導者から直接指摘を受ければいい。 というよりも、ここまでを完璧にできるなんてのは、芝居を始めて5年やそこいらでもめったにいない。駄目で当たり前、失敗して当然と思って、飽くなき挑戦を繰り返してほしい。 |