| スタニスラフスキー・システム(以下、スタ・シス)のシステムとは体系、系統、方<式を意味する。 スタ・シスとは、スタニスラフスキーによって体系だてられた“論理的な俳優養成術”であり“論理的な演技術”のことなのである。 では、スタ・シスを研究することによって恩恵を得られる人とは誰か? 役者ならば、勉強していて当然であろう。肯定するにしても、否定するにしても、スタ・シスを知らぬ役者はいかがなものか。 学校演劇、アマチュア演劇における“麻疹のような一過性役者”または“青春の思い出づくりとしての役者”ならばともかく、20世紀も終わろうというのに、一生を演技表現にかけようという役者がスタ・シスを知らぬのは恥でさえある。 演技表現とは、きわめて論理的なものである。心、精神、スピリット、ソウルといった情緒だけで演技を極められるのは、何千万人にひとりの天才だけだ。 役者とは、才能だけでなれるものでもない。 大事なことは、役者となるべく自己を磨くことであり、磨かれることである。 役者して自己を磨く時、その努力は“正しいベクトル”を向いているかどうかが問題となる。 では、正しい努力のベクトルとはなにか? 正しい努力とは“成果を得られる努力”である。どんなに汗をかき、どんなに頑張ったとしても、結果として成果を得られなかったら、その努力は間違えているのである。 そして、演技表現とは“まぐれ”だけではない。結果としてのまぐれが一切ないとはいわない。しかし、まぐれだけで構成されるプロの演技表現などというものはない。 「役者は二度と同じことをやらない」という有名な言葉があるが、それ以前に「役者は何度でも同じことをやれる」という前提が必要なのだ。 いま現在、役者である人ならば覚えがあると思うが「前回の稽古は良かったのに、今回は駄目だった」というのがある。これは「同じ演技しかできない」というのとは違う。「コンスタントに水準以上の演技をできない」という偶然性だけの演技になってしまっているのである。 演技に、根拠やバックボーン、背骨がなく、その場その場の思いつきでやっているだけでは、いつまでたっても上達はありえない。 前衛、実験、自分たちの趣味を目的とした演技であれば、即興の名の元に許されるかもしれない。 しかし、メジャーなシーンにおいて活躍を望み、一生を演技にかけようというプロ役者を目指すならば、致命的な欠陥だとしかいえない。 スタ・シスは、役者の演技に根拠を求める。その根拠を表現するための技術を得るための思考術であり、訓練方法を示すものなのだ。 「台詞に必然がない」 「芝居に根拠がない」 「演技が表面的だ」 …といった罵倒を、演出から受けたことのある役者であればこそ、スタ・シスは役立つ。 そして、スタ・シスは、役者を“猿回しの猿”から解放し、“真の人間”へとステップアップさせる。 「演出指示すらまっとうできない役者モドキ」などというのは論外だが、「演出指示を待っているだけの役者」では、人間の役者とも呼べないのである。 役者は、演出にいわれたことだけをやっていればいいのか? 演出の命令がないかぎり動けない役者は、役者ではない。人間ですらない。 叩かれることを恐れて、言いなりになっている猿だ。 私たち演出は、猿回しではない。知性をもった人間の役者と作品をつくりあげていきたいと願っている。 演出を猿回しにしてしまうのは、役者が猿だからである。 人間の役者といっしょに作品をつくっている時こそ、演出は演出たりうる。 演出指示がなくても、ある程度以上の解釈をし、演技表現を示してくれる「本物の役者」とこそ、演出はいっしょに作品をつくりあげたい。 そして、そういう役者に対しては、最大限の敬意を払い、最高の賛辞をもってその存在を讃える。それがプロの演出というものだ。 その状態こそが、演劇という総合芸術に求められる“真のコラボレーション”である。 仲間たちといっしょに仲良くやっているだけがコラボレーションではない。 互いに批判しあって、高尚なことをやっている気になるのがコラボレーションではない。 少なくとも、プロの役者であり、プロの役者を目指す志望者がそれではいけない。 これら情緒的な落とし穴に役者が陥りやすいのは、論理的に演劇と演技を考える人が少ないからだといっても過言ではないだろう。 真のコラボレーションとは、より良い作品をつくりあげることが目的となっていなければならない。各パートの自己満足のためではなく、大目標として“作品の成立” がなくてはコラボレーションにはなりえないのである。 そこには“秩序としての序列”はあったとしても、演出が役者を縛り上げるだけの一方的な関係などはありえないはずだ。 この真のコラボレーションをもたらすことが、スタ・シスの根幹なのである。 スタ・シスとは、単なる理屈や能書きではない。役者を役者たらしめるための実践術なのだ。 |