第二章

      

  第二章は、第一章での試演会『オセロウ』を演出家トルツォフが批評するかたちで、スタニスラフスキー・システムの目指す演劇を説明しはじめる。
 この第二章は、スタ・シスを理解する上でいくつもの重要なキーワードが隠されているので、何度も何度も読み返して欲しい章でもある。


■第二章−1

 冒頭、トルツォフはあっさりとスタ・シスのエッセンスともいうべき点を言葉にしている。それは『役を生きる』という一語だ。
 この第二章は、「役を生きる」という領域、そして至り方をじっくりと説明している。

 トルツォフは、試演で2つのシーンが成功したと認める。マリアが階段を駆け下りて「ああ、助けて!」と叫ぶ瞬間と、コスチャ・ナズワーノ(注・主人公である「僕」)が「血だ、イアーゴウ、血だ!」と言った瞬間の、ふたつである。
 だが、主人公である「僕」は、自分のシーンの成功を理解できない。それに対し、トルツォフは驚く。「なに! 君は、君自身の内的興奮を思い出さない?」と。
 内的興奮‥‥‥スタ・シスにおける重要なキーワードその1である。
 ほとんどの俳優は、強い情動のシーンで、情動を象徴する表現そのものを演技だと思いがちである。「怒り」といえば、怒鳴ったり、叫んだりすることが、怒りを演ずることだ、と。「悲しみ」といえば、泣くことが、悲しみを演ずることだ、と。
 これらは類型的演技ともいうものであり、演技というよりも記号でしかない。大事なことは、怒りという内面からの感情によって、声が大きくなることもあるかもしれないし、悲しみという内面からの感情によって、涙がこぼれることもあるかもしれない、ということだ。つまり、大声を張り上げているから怒っているわけでもなく、泣き叫んでいるから悲しんでいるわけでもないということである。
 内的興奮とは、役の内面からほとばしる感情のことであり、それは演技の原動力ともいうべきものだ。

 トルツォフの指摘により、“僕”は自分の成功したシーンを意識はしたものの、その是非についてはわからない。トルツォフは続けて問う。「君は、潜在意識で演じていたわけか、直覚的に?」と。“僕”は「多分」としか答えられない。
 潜在意識、直覚的‥‥‥スタ・シスにおける重要なキーワードその2である。
 ここでいう直覚(直感)とは、初心者が陥りやすい失敗であるところの「思いつき」ではない。潜在意識にしても、直覚にしても、それはあくまでも役の潜在意識であり役の直感である。
 そして、スタ・シスが勘違いされやすいのは、ここでもある。スタ・シスにおける「役に生きる」、そして、スタ・シスのアメリカでの発展系であるアクターズ・メソッドにおいて「役に生きる」ために重要視される精神開放を、感情の暴走と発散にしてしまうのは、潜在意識と直覚の根拠を間違えてしまっているからだ。
 スタ・シスにしても、メソッドにしても、その根幹は「役に生きる」ことであり、俳優自分自身の暴走や発散ではない。役における全ての感情表現は、役の内面から発生するものであり、俳優個人の内面とは無関係のものである。
 つまり、全ての演技の根拠は、役の内面にあり、役の内面を捉えるのは、演技の設計図である戯曲ということだ。

俳優修業 第一部』 第二章 演技が芸術である場合 より抜粋(P23より)
「そうさ、だって、俳優が完全に、戯曲に心を奪われるようにしたら、それ以上のことはないからだ。その場合には、彼自身の意志には関わりなく、彼は、役を生きる、どう感ずるか、気がつかず、なにをするか、考えずに、そのすべてが、潜在意識的に、直覚的に、ひとりでに動くのである。」


 ここもまた、きわめて重要な点である。
 「俳優が完全に戯曲に心を奪われる」とは、演技の全てが戯曲に則るということだ。
 俳優という人種には、演技を通じて自己認知を求める人が少なくない。いや、俳優を目指す人間、そして、俳優という人間のほとんどは、演技を通じて「自分を大勢の人々に認めてもらいたい」という欲求を強く持っている。この動機自体を否定はしない。マズローの例を持ち出さなくても、社会的動物である人間には、自己認知欲求というものが本能的に存在しているからだ。
 しかし、演劇を、演技を、自己認知欲求だけで進むことはできない。自己認知欲求の充足のみを目的とするなら、その人はタレントになるべきであり、俳優という領域にはないからだ。
 トルツォフがつかう言葉の中に「我々の芸術」というものがある。今の時代、芸術という言葉には、権威主義的なものが強く感じられるため、芸術を名乗ることを嫌がる人間は少なくないだろう。私も、そのひとりである。ただし、ここでトルツォフのいう芸術とは、現代人が嘲うスノッブな芸術という意味ではない。
 トルツォフが否定するのは、スターやギミック(仕掛け)に寄りかかって興行を成功させる退廃的演劇である。そして、トルツォフ(すなわちスタニスラフスキー)が目指すのは、文学的戯曲を演じられる能力と、役の内面から発生するリアルで自然な演技、それを「我々の芸術」と呼んでいるに過ぎない。
 トルツォフは、我々が目指す「役に生きる」という領域へのアプローチはきわめて難しいことを説明する。

『俳優修業 第一部』 第二章 演技が芸術である場合 より抜粋(P24より)
「不幸にして、これは我々の意のままにはならないのである。我々の潜在意識は、我々の意識には近寄りがたいのだ。我々は、その領域へは踏み込むことができない。もしも、なにかの理由で、我々がそこへ立ち入ろうものなら、もう、潜在意識は、意識と化して、死んでしまう」

 潜在意識は、意識と化して、死んでしまう‥‥‥スタ・シスにおける重要なキーワードその3である。
 潜在意識にて直覚的に演技することがもっとも大事なのだが、潜在意識とは意識した瞬間に潜在ではなくなる。潜在意識の演技とは、無意識の演技と言い換えてもいいだろう。
 特に、演技初心者は潜在意識や無意識とは程遠く、演技を意識しがちである。
 たとえば、覚えた台詞の再生で頭がいっぱいになる。次の台詞を間違えないよう言うことに頭がいっぱいになる。どう動くかで頭がいっぱいになる。
 これらの「頭がいっぱいになる」とは、役の意識ではなく、俳優の意識なのだ。つまり、役の意識とは無関係な俳優の意識でいっぱいとなってしまっているにすぎない。
 もっとも難しい演技のひとつに「驚く」というものがある。
 たとえば、日常生活において、真夜中、人気のない暗い路地を歩いているとき、突然、目の前に人が飛び出してきたら、素直に、純粋に驚くだろう。
 しかし、戯曲の中に人が飛び出してくるという指定があったら、なかなか純粋には驚けないものだ。驚いているというサインを示すことに精一杯になったり、どうしたら、観客から驚いているよう見えるかに腐心してしまう。俳優の心の中には「次は驚くぞ」という準備であったり、「驚かなくちゃ」という義務感まで発生していたりする。これらは無意識か有意識か? 答えは無論、有意識である。
 では、無意識をどうにかしようと思うと、どうなるか。どうにかしようと思った瞬間から、それは無意識ではなくなる。つまり、「どうにかしよう」という意識が、無意識を殺してしまうのである。
 トルツォフは続ける。「インスピレイション(直感)を与えてくれるものは、我々の潜在意識だけだ」。しかし、その潜在意識は、意識した瞬間に死んでしまう。それは直接的な近づき方をしてしまうからだ。間接的な近づき方をすれば、解決がつく。俳優の意識が、インスピレイションを邪魔してはいけない、と。

『俳優修業 第一部』 第二章 演技が芸術である場合 より抜粋(P25より)
「我々は、完全な意味で潜在意識的なものは全て、自然に任せて、我々の手におえるものに立ち向かわなければいけない。潜在意識が、直覚が、我々の活動の中に入ってきたら、邪魔をしないことを、我々は弁えなければならない」


 潜在意識が、直覚が、我々の活動の中に入ってきたら、邪魔をしないこと‥‥‥スタ・シスにおける重要なキーワードその4である。
 演技には、きわめて不思議な面がある。能力の高い低いに関わらず、突然、良い芝居をできてしまうことがあるのだ。
 これを一部では、「本番の奇跡」という言い方をするのだが、その正体は「役の無意識に全身全霊をのっとられた状態」といってもよい。
 このような経験は、演技初心者であっても何度かは来るものだ。しかし、ほとんどの場合、自分の身体や心に生じたこの変化に驚き、無意識を殺してしまい、永続することが困難になる。目指すべきは、この領域だというのに。
 スタ・シスにおける究極とは、役の内面によって支配された時に生ずる無意識の瞬間を、1本の戯曲を演ずる間中、継続することである。
 スタ・シスとは、役に生きること=俳優の意識で演技することの否定である。そして、その役の内面に間接的な近づき方をするための考え方だと思ってかまわない。『俳優修業』に書かれていることとは、俳優が役の内面へアプローチするためのステップなのである。
 そして、役の内面からインスピレイションを引き出し、俳優個人が意識した末に生まれる演技ではなく、インスピレイションに支配された演技を求めようというものだ。

 トルツォフは、そのためには何が大事なのかを続ける。

『俳優修業 第一部』 第二章 演技が芸術である場合 より抜粋(P25より)
「正しく演ずるとは、間違いがなく、論理的で、一貫しているということ、役に合わせて考え、努め、感じ、行うということだ」


 間違いがなく、論理的で、一貫しているということ‥‥‥スタ・シスにおける重要なキーワードその5である。
 ここで重要になるのは、戯曲の存在である。俳優は、戯曲を起点に演技を構築しなければいけない。特に、プロ俳優は、この点を強く求められる。
 逆にいえば、戯曲を起点にしなければ、なにをもってして、間違いがないと、論理的であると、一貫しているといえるだろうか?
 このキーワードは、こう言い換えても良い。戯曲を、間違いなく、論理的に、一貫して“解釈”すること、と。
 間違いのない解釈とは、矛盾が発生しないことである。
 論理的な解釈とは、俳優自身が納得し、観客に対して説得力があることである。
 一貫した解釈とは、ストーリー全体がしっかりとした流れを持ち、ドラマが自然な心の流れを持ち、キャラクターが人間として不自然ではない、ということである。
 これらを重要視し、目指すからこそ、スタ・シスは文学的戯曲を演ずることができる俳優を育成できるのであり、スタ・シスで育てられた俳優は、リアルで自然な演技ができるようになるのである。

 役に合わせて考え、努め、感じ、行うということだ‥‥‥スタ・シスにおける重要なキーワードその6である。
 ここで重要になるのは「役に合わせて」である。ここまでで何度も書いているが、演技とは役になることである。けっして自分の延長線上にあるものではない。
 「僕だったら、こう考える」「私だったら、こう感じる」といったものは、役の考え方でもなければ、役の感じ方でもない。あくまでも俳優個人の考え方であり感じ方にすぎない。
 俳優個人を起点に、役をアプローチしてはいけない。俳優個人を起点に生みだした役とは、俳優の枠の中に生まれたものにすぎない。役の中には、俳優個人の枠の中に収まる面もあるだろう。しかし、俳優個人の枠の中には収まらない面も役には存在するのである。いや、ほとんどの場合、役は、俳優個人の中には収まりきらない巨大なものだと思っていたほうがよい。
 だからこそ、俳優は、役に合わせる努力をしなければならない。自分の思考や感覚ではなく、役の思考や感覚を探らねばならないのである。
 これらの作業を「内部的過程」という。
 たとえば、立ち上がるという単純な動作ひとつとってみても、役の内部的過程は無視できない。
 演出から「立て」と言われたから立つのではない。解釈から内部的過程を経た上に至る役の内面から、役は立てるのである。
 戯曲に「座る」とト書きされているから、座るのではない。解釈から役の内部的過程を経て、役の内面から、役は座るのである。
 解釈も、内部的過程も経ず、内面が醸成されていないのに、演出の命令だからと立ったり座るのは、人間の行動ではない。
 日常において、演出は存在しない。あなたが公園のベンチに座っているとき、突然、目の前に演出が現れて「立て」ということは、絶対にない。あなたが公園のベンチから立ち上がるとき、それは演出の指示があるからではなく、なんらかの必然があって立つのである。でなければ、あなたは、一生、そのベンチに座り続け、やがてベンチの上で死を迎えるだろう。
 そして、これは役も同じなのだ。役としての理由、役としての必然、つまり内面の発生がないかぎり、役は座ることも立つこともできないはずなのである。
 しかし、解釈と、内部的過程を経て、役の内面が醸成されたならば、舞台の上で、役は情熱的な求愛をすることもあれば、人を殺すことさえもできる。それは俳優自身が、情熱的な求愛と無縁の人生を送ってきていても、人を殺そうと思ったことなど一度としてなくても、だ。
 役として思考・反応する内部的過程とは、役が行動するための原動力ともいうべき内面に至るための、大事なステップなのである。

『俳優修業 第一部』 第二章 演技が芸術である場合 より抜粋(P26より)
「彼(注・俳優)の仕事は、ただ彼の人物の外的生活だけを描くことではない。彼は、自分の、人間としての色んな性質を、その他人の生活に適合させ、その中へ、自分の魂の全てを注ぎ込まなければならないのだ。我々の芸術の根本目的は、この、人間精神の内生活の創造であり、それを、芸術的な形式で表現することである」

 外的生活、内的生活‥‥‥スタ・シスにおける重要なキーワードその7である。
 外的生活とは、その職業や立場が生む行動や言動といった反応であり、
 内的生活とは、日常における反応を生むに至る、役の内的過程という意味である。
 「役を生きる」という言い方は、漠然とした面をもっている。「役として思考し、反応する」というのは理解できるが、現実味が薄いと思う人は少なくないだろう。それは戯曲の中に描かれている反応だけを再現しようとしているからだ。
 大事なことは、役を現実味ある人間として“生活”させねばならないということである。
 生活とはなんであろうか? 食事、睡眠、排泄といった本能的なものに加え、言動から行動に至る全てである。戯曲に、わざわざ排泄や入浴のシーンが書かれていることは滅多にない。食事のシーンがあったとしても、特別な場合を除き事細かなト書きは稀である。
 私たち人間は、ト書きや演出などなくても、日常を生活できるものなのだ。
 同じく役も、戯曲から内部的過程を経ていけば、戯曲に書かれていない面の役の生活までを創造できるのである。
 なぜ、演技初心者の演ずる役は、わざとらしさを感じたり、演技に画一的な印象を受けやすいのか? それは内面からの演技がないというだけでなく、生活感も欠如しているからである。
 俳優自身の生活感ではなく、役の生活感というものがある。そこに至ってこそ、役はわざとらしさや画一性とは無縁の自然なたたずまいを身に付けるのだ。つまり、役としての自然な存在感ともいうべきものである。

 話は潜在意識について戻る。
 トルツォフは言う。「潜在意識は、意識的技術がなくては働くことができない」と。
 つい2ページ前で「意識は潜在意識を殺す」と言っていたのに、やや矛盾するような文章である。ここで気をつけて欲しいのは、トルツォフは意識ではなく、意識的技術といっている点だ。
 意識的技術‥‥‥スタ・シスの重要なキーワードその8である。
 これについては、抜粋をせずに私(安達成彦)の言葉で説明しよう。
 無意識は、意識した瞬間に、死ぬ。意識という働きによって、無意識は殺されてしまう。
 では、どのようにして、無意識を演技へと誘導するのか? 無意識を招く土壌をつくることである。
 人間は、手に痛みを感じれば、手を引っ込めるという反応をする。ところが初心者は演技において、手を引っ込めるという反応を演じようとする。また、その引っ込め方についても、役を理解しようとせずに、俳優自分自身のままで引っ込めてしまう。
 役を生きるためには、戯曲を解釈し、役の内的過程を経て、役として反応すること。ここまではもう理解できたことであろう。そして、これが意識的技術そのものなのである。スタニスラフスキーが求めているのは、「解釈し、内面から演技する」を純粋にやればよいということなのだ。
 この状態にのみ集中すれば、俳優自身の「こうしてやろう」とか「こう演じよう」という思惑が生む「不自然な演技」とは無縁になるだけではなく、
 役の無意識という潜在意識を喚起し、インスピレイションの爆発を呼ぶ。
 大事なことは、戯曲解釈に則って役に集中することなのである。
 戯曲解釈なく演ずることは、道理の通らない不自然な反応(演技)を呼ぶだけであり、
 役への集中なく、解釈を演ずるだけでは、役が生きた人間にはならないということなのである。
 私はスラッと単純に書いたが、「戯曲を解釈し、内的過程を経て、内面から反応する。すると、潜在意識が招かれてくる。それこそが意識的技術である」というのが、スタ・シスの重要な点であり、もっとも難しい面なのである。
 これは理解したからといって、すぐにできるようなものではない。演技者としての経験も必要なら、自分自身の自我をコントロールできるようになることも大事である。
 そして、この領域に至るための各種訓練方法をまとめあげたものこそが『俳優修業』なのである。

 生徒のひとりポール・シュストフが質問する。「人間精神の生活を創造することが大事なんですね」と。
 その質問に対し、トルツォフは、正確な答えではあるが、完全ではない、と答える。

 『俳優修業 第一部』 第二章 演技が芸術である場合 より抜粋(P26より)
「はなはだデリケイトで、大部分潜在意識的な生活を表現するためには、異常に敏感な、よく準備のできた発声および身体器官をコントロールできるということが必要である。この器官は、即座に、正確に、はなはだデリケイトで、ほとんど雲をつかむような感情を、非常に鋭敏に、直接に再現するようでなければならない」

 そして、「そのために“我々のタイプの俳優”は、“ほかのタイプの俳優”よりずっと余計に勉強しなければならない」とトルツォフはいう。

 ここでひとつ説明をしておこう。
 『俳優修業』には“我々の芸術”“我々のタイプの俳優”というように、何度も“我々の”といった注釈じみたものがでてくる。こういう言い方に傲慢さ感じるから、スタ・シスを嫌っている人も一部にはいる。
 スタ・シスは、俳優の訓練術を、論理的に体系化した人類において初めての書物である。
 『俳優修業』が書かれた当時、世界の演劇はスターに頼った安易な企画モノが主流であった。スターをスターらしく見せ、観客はスターを見て喜ぶ。それが演劇の主流だったのである。そこには、リアルな人間像もなければ、人間の精神を震わすドラマもテーマもなく、ストーリーも安易なものしかない。
 スタニスラフスキーは、リアルな登場人物たちが、精神の根源を追求するドラマとテーマとストーリーを綾なす文学的戯曲を演じられる俳優を欲した。そのためには俳優の訓練方法そのものからを見直さなければならない。スタニスラフスキーとスタニスラフスキーの仲間たちである“我々”の進もうとするベクトルと、訓練方法をまとめあげたものこそが、『俳優修業』なのである。
 つまり、“我々”に対する“ほかのタイプ”とは、当時の主流であった退廃したスター演劇なのである。

 本題に戻る。
 ここでスタニスラフスキーは身体訓練であり発声といった基礎能力の重要性を述べている。
 なぜ、身体訓練が重要なのだろうか。自然な人間の反応を演じようと思うなら、普通の人以上の体力は必要ではないように考える人も少なくないだろう。
 役の求める身体能力が、俳優の身体能力が上回っているならば、その通りだ。しかし、俳優は、生涯を通じて、ありとあらゆる役を演じなければならない。その役の中には、俳優の身体能力を超える役もありうるのである。
 たとえば、古代ギリシャの兵士は、総重量40キロにのぼる装備を身に付けた状態で、1日100キロに及ぶ行軍をした。
 ギリシャ悲劇は、紀元前から今も演劇のスタンダードである。あなたたちが演劇を続けていけば、何度かは演ずる機会があるだろう。しかし、古代ギリシャの兵の役であっても、舞台衣装では40キロに至ることはないだろうし、100キロも歩かされることはない。
 しかし、舞台衣装で10キロを超えるものは珍しくないし、1本の戯曲の中、舞台上のアクションでダッシュを繰り返すことも珍しくはない。また、そのような状態を、稽古期間中、何度も何度も繰り返すのである。
 その時、俳優のありのままの身体能力では、役の身体能力に追いつけないこともあるのだ。その場合、役としては動けなくなってしまい、役としては不自然な動きの反応になってしまうのである。
 全く同じことは、発声にもいえる。
 発生訓練をしたことがない一般人の発声できる音域は、約1オクターブから1オクターブ半である。2オクターブの音域を持った一般人は稀だ。だから、声に表情がないし、気持ちが入れば入るほどに、声が引っくり返った状態になってしまう。
 しかし、よく訓練された俳優のほとんどは、2オクターブから3オクターブ、人によっては3オクターブ半の音域をもっている。だから、意識的にそうしようと思った場合を除き、引っくり返った素っ頓狂な発声になることはない。
 訓練されていない人が「声を出せ」といわれた場合、声を高くすることはできても、なかなか大きくはできない。また、大きく声を出そうとすると、意識的に張った状態の発声となってしまう。
 しかし、訓練によって、腹式呼吸(横隔膜呼吸)を完全にした俳優は、音程を変えずに声量のみを大きくすることも可能なら、張らなくても大きな声を出すことができる。
 想像して欲しい。
 身体訓練や発声訓練といった基礎訓練なく、感情をほとばしらせた場合を。俳優本人の自然ではあるかもしれないが、役として見た場合には、不自然な動きがいたるところにあらわれ、日常的なシーンでさえもワーワー張って発声しなければ劇場の隅々まで届かず、感情が高揚してくるとキーキー引っくり返って、どんな台詞を言っているのかさえ観客には理解不能な舞台。
 そんな舞台であっても、ライブということから感動してくれる観客はいるだろう。「俳優の汗と涙」に感動してくれる優しい観客は、確実に存在している。しかし、それは観客の同情の上に成り立つ、汗だくになった俳優を見世物にした舞台に過ぎない。なぜなら、台詞が満足に観客に通じていない舞台には、ストーリーやドラマ、そしてテーマの成立はありえないからだ。
 ここで安達成彦として、提案する。「最高速度ではなく、巡航速度として、高い能力をもってほしい」。
 最高速度160キロの自動車と、最高速度80キロの自動車の2台があった場合、君はどちらの自動車で高速道路を走りたいだろうか?
 全力でなければ動けなかったり、全力でなければ通らない発声というものは、時速80キロが最高速度の自動車で高速道路を走るようなものなのだ。つまり、最高速度がイコール制限速度なのである。
 身体能力にしても、発声能力や滑舌能力にしても、何も訓練されていない状態では最高速度で突っ走るしかなくなってしまうのだ。基礎能力についていえば、俳優の能力の余裕の中にあることこそが望ましいのである。
 舞台の上、日常会話的台詞さえも張らねば通じないのは、単純に基礎能力が低いからである。そもそも張って発声している時点で、自然からかけ離れているのだ。舞台上と、普通の日常会話では、音量そのものが違う。舞台で求められる音量でさえも、基礎能力の余裕でこなせれば、張ることはないのである。
 同じことは滑舌にもいえる。感情が激した場合、誰でも滑舌が悪くなる。しかし、感情が激したからといって、台詞が人間の言葉として聞こえないのでは問題がある。その台詞が後のストーリー展開に関わる場合、観客はストーリーをきちんと把握できなくなる。激した時に滑舌が悪くなるからこそ、滑舌能力の最高値を上げておくのだ。そうすれば、感情が激したシーンの台詞であっても、観客に台詞の意味は正確に通じる。
 つまり、落ち込む能力を織り込んで、最高値を上げておくこと。これが基礎訓練の基本なのである。
 そして、なによりも、それら基礎訓練がなされていない場合、俳優は役を自然には演じられないのである。自分自身の能力の低さゆえに、ミザンス(アクション)や台詞が不自然になってしまうことを忘れてはいけない。舞台の上、役として自然に反応したくても、能力に問題があるから、自然に反応できないということだ。

 “僕(主人公)”は、自分がスタニスラフスキーの目指す方向に、瞬間でも至ったことに喜ぶ。しかし、それをトルツォフは「早まってはいけない」と諌める。

 『俳優修業 第一部』 第二章 演技が芸術である場合 より抜粋(P29より)
「時々、突如として、思いがけなく、非常な芸術的高みへ昇って、観客をあっといわせる瞬間があるものだ。そういう瞬間には、君は、インスピレイションによって想像しているのだ、いわば即興に駆られているわけだ。だが、君は、自分に、堂々たる『オセロウ』五幕を、君が偶然、あの短い一場面の、一部分を演じたのと同じ高さで演ずるに足るだけの能力がある、精神的に、あるいは身体的に、それだけの力量があると思うかね?」

 この言葉は、演技初心者にグサッと来るはずだ。
 演技訓練の一環として、エモーション訓練(情動訓練)というものがある。情動を心の内に沸き立たせ、表出させる訓練だ。
 1本の戯曲とは、全てがエモーションで通されていなくてはならない。数分のエモーション訓練とは違い、数時間を役として生き抜かなければならないのが、演劇というものである。
 1時間を超える戯曲をやれば、どんな初心者にも役に集中した一瞬というものがある。しかし、それはあくまでも一瞬でしかない。1本を通したものではないのである。
 俳優が目指すべきは、一瞬を連続させ、1本の戯曲を演じている間中、全てを集中にもっていくことなのである。
 これは恐ろしく困難な作業であり、ベテランであっても、コンスタントにはできないものである。しかし、その困難を征服するための訓練、それこそが俳優修業なのである。そして、だからこそ、俳優は一生を通じての訓練が必要となるのである。

 現代人は映像(映画・TV)の演技に慣らされてしまい、一瞬で全てを評価しがちである。それこそ、一瞬よければ、それでよし、といった感じの人は少なくない。
 撮影中、数秒から数分でカットがかわる映像の演技と、ひとつの時間軸を突き進む舞台の演技では、ここが異なるのである。
 ところが、現代における演劇初心者のほとんどが、映像における数秒から数分といった一瞬の演技を、そのままに舞台へもっていこうとする。
 よく考えてもみてほしい。君が、舞台をベースにして、真に実力ある演技を求めるのであれば、インスタントかつコンビニエンスに観られる映像の演技は、誰がやっているのか、を。
 つい、数ヶ月か数年前まで、コマーシャルで微笑んでいただけのお人形さんのような少女が女優を名乗り、アイドル歌手としてワーキャーやっていただけの少年が俳優を名乗れるのが、映像の業界である。
 そして、そんな男優や女優の存在を映像の業界人たちが許すのは、監督やキャメラマン、各種演出効果に携わるプロたちが、「彼ら彼女らの演技らしきものを、観客が見て演技と思える領域へと高めているのは、自分たちプロの演出効果あってこそである」と、誰よりもよく理解しているからだ。
 ここが演劇と映像の、もっとも違う点である。
 演劇は、俳優の演技表現そのものに対しては、演出をつけない。あくまでも俳優自身が生み出した演技がまずあって、そこに補足的に各種演出効果が最小限加わるのみである。演劇における最高責任者である演出は、作品全体の統括者ではあるが、それは支配ではない。戯曲の存在があり、そこから引き出される俳優のインスピレイションを尊重することこそが、演劇における演出の、基本的なスタンスであり、究極なのである。
 それに対し、映像は、完成させたい映像の“計画”というものが監督にあり、監督はその“計画”に合わせて俳優を誘導する。そして、俳優の力だけではその“計画”には達さないことを、全てのスタッフがわかっている。つまり、諸君が、いつも目にしている映像における演技とは、俳優の演技がメインではなく、優秀なスタッフがつくりあげてくれた結果論に過ぎないのである。

 演劇を出発点とする俳優は、舞台において俳優こそがきわめて重要な存在であるということを、よく理解しておかなければならない。
 そして、重要な存在として認められるためには、きわめて厳しく大変な訓練の数々によって、演技と認められるだけの能力をもたねばならない義務があるのだ。
 そうやって育った俳優こそが、インスピレイションからなる一瞬の連続という極めて困難な領域において演技表現をできるのである。


■第二章−2

 ここでトルツォフは、『再現の芸術』という、もうひとつの“芸術”について述べる。
 「再現の芸術」とは、わかりやすくいえば、演技の外面を完成させていく表現方向である。その過程において、役を生きる=役の内部的過程を経ることはあっても、一度、完成の域に達したなら、そのあとの演技に内部的過程はない。ただ、ひたすらに完成度を磨くことに終始する。
 たとえば、こういうことである。熱いものを口に入れ、ハフホフとする演技があったとしよう。再現派は、唇や舌や顔面筋肉をどのようにつかってハフホフしたかを追求する。その過程の中に、「どの程度の熱さかをわかっていなかった時」と「実際に口の中に入れた時」の違いを、内面的に追求することはあっても、その内面と反応という答えをつかんだならば、それで内面追求は終わるのである。その後の演技には、より完成されたハフホフの追求しかない。
 それに対し、スタ・シスが求めるのは、何度でも内面を再生するということである。

 『俳優修業 第一部』 第二章 演技が芸術である場合 より抜粋(P32より)
「我々の芸術では、諸君は、それを演じている、いついかなる瞬間でも、しかも、それを演ずる度毎に、役を生きなければならないのである。それが再創造される度毎に、それは、あらためて生き直され、あらためて体現し直されなければならない」

 これは、ひじょうに難しい作業である。
 どんな人間にも「慣れ」というものがある。稽古期間の間、何度も同じ場面を演ずるから、徐々に新鮮さが薄れていく。やがて、その稽古期間において、もっとも上手に演ずることのできた瞬間を再現することに腐心するようになる。初心者はこれから、そして、ある程度の経験者であれば、何度も経験していることであろう。
 しかし、これはスタ・シスが求めている領域ではないのである。なぜなら、自分自身の演技の再現といった時点において、無意識のみが生み出すことができるインスピレイションとは無縁だからだ。
 「そんなことは無理だ」という人もいるだろう。では、なぜ、「演ずる度毎に、役を生きる」ことができないのだろうか。
 それは俳優自身の自我の問題である。第二章−1でも触れたが、意識は無意識を殺す。つまり、俳優自身の意識であるところの自我が、役の意識であるところの無意識を殺してしまっているのである。
 そもそも、無意識におけるインスピレイションが支配した演技には、俳優の自己評価などはありえないのだ。演じている最中に「うまくいっている」とか「調子が悪い」といった俳優の意識が出てきた時点で、それは自我がのさばった、役に集中できていない状態なのである。
 自我が強い=開放されていない状態で、集中すらもしていない状態だからこそ、自分の演技を意識でき、再現できるといっても過言ではない。

 トルツォフは、どのような過程や準備を経て、再現の芸術に至ったのか、ポールに質問する。ポールはそれに対し、「鏡を使った」と答える。
 現在、俳優養成所で基礎から勉強している人たちの中には、少なからず「鏡の前で演技するな」「演技をビデオに撮るな」という指導を受けた人が存在するだろう。
 それには「演劇とはライブの芸術だから、昔のものには意味がない」という美学的な観点もあるのだが、それ以上に、演技を固定化してしまうことを心配しているのである。
 鏡の前で演ずる時、最大の注意は鏡に映った自分に向けられる。鏡に映っているのは、内面ではない。あくまでも外面である。つまり、俳優の注意は、内的過程ではなく、外的形式に集まってしまうのだ。
 外的形式=演技表現結果というものも、また、重要な要素のひとつではある。しかし、それのみをもってして、演技は完成しない。
 しかし、鏡の前で演じている俳優には、その成功がよくわかる。成功の実感があるわけだ。その成功を何度も繰り返せるようになりたくなるのはわかるが、そこに内部的過程がないのが問題となるのである。

 また、ポールには、もうひとつの問題もあった。それは、彼がイアーゴウを演ずる時に、実在の知人をモデルにしたことを白状したのである。
 これもまた、初心者が陥りやすい失敗のひとつである。「悪役を悪役らしくやろう」とか「王女を王女らしくやろう」とした時、人は誰しも、まず、一般論から出発し始める。悪役ならば、冷徹な顔つきや、憎らしい声色を再現しようとしたりする。
 しかし、一般論だけでは困難だとわかりはじめると、今度はモデルを探し始めるようになるのだ。つまり、物真似を始めるのである。
 物真似には、物真似以上のものはない。しかも、たいていの場合、ほとんどの初心者は物真似の物真似をしようとするものなのである。
 たとえば、あなたが美川憲一の物真似をしようとしても、実際には、美川憲一の物真似をしているコロッケの物真似をしているようなものだ。
 なによりも、そこに、役の内面は存在しているのだろうか?
 悪役という枠に押し込んでしまった時点で、その役の可能性は極めて狭まる。その役の内面といったものは、どんどん見えなくなっていく。すると、結果として、悪役を悪役らしく見せる外的形式を繰り返すしかなくなってしまうのである。そして、そのときには、もはや、役の内面といったものからは、遠くかけ離れているというわけだ。
 繰り返そうという意識がもっとも重要視するのは、技術である。技術をもってして、繰り返しは初めて可能となるからだ。しかし、そこに自然はあるのだろうか? 繰り返しによって育まれた俳優自身の自然はあるだろうが、役の中で醸成されていく自然は乏しくないだろうか。
 この失敗は、特に養成所の研究公演で起きやすい。一部の講師は、演出としてではなく支配者として君臨する。特にそれは養成所のような明確な上下関係がある集団において顕著だ。俳優は、演出指示ではなく、演出命令をまっとうすべく、演出に褒められた芝居を再現しようとする。結果として、公演そのものは「見られるもの」にはなっているかもしれない。しかし、それでは、現代演劇における俳優養成としては、全く無意味な経験になってしまうのである。
 そうした経験を持つ俳優は少なくない。そんな人たちに、もっとも痛烈な部分を引用しよう。

 『俳優修業 第一部』 第二章 演技が芸術である場合 より抜粋(P29より)
「最初は、彼らは、役を感ずる、が、一度そうすると、彼らは、改めてそれを感ずるということをもうやらない。ただ、最初に工夫した外的な運動や、イントネイション、表情を思い出して、繰り返すだけだ、情緒抜きでそう言う繰り返しをやるのである。しばしば、彼らは技巧には極度に熟練していて、ひとつの役を技巧だけで、神経の力はちっとも使わないでやりぬくことができる。全く彼らはしばしば、ひとたび則るべき方を決定してしまったならば、感じたりするのは愚かしいことだと考えるのである。最初、うまくいったときどうやったか、ただ、それを思い出すだけにした方が必ずうまくやれると考えるのだ」


 ここまでを正確に理解していたならば、この引用は、極めて強烈で、あなたの心の中に猛烈な恥の意識が広がるだろう。
 しかし、残念ながら、この領域をみんながみんな、理解できるとはかぎらない。「うまくやれて、何が悪いんだ」と開き直る人もいるだろうし、「だが、舞台を成功させるためには現実的な方法論だ」と反論する人もいる。
 これに対し、トルツォフ(スタニスラフスキー)も、また、反論を用意している。

 『俳優修業 第一部』 第二章 演技が芸術である場合 より抜粋(P37より)
「再現の芸術は、それが、芸術であるべきならば、完璧を要求する」
「このタイプの芸術は、美しくはあっても、それほどは深くはないし、真に力強いよりは、むしろ直接効果的なのである。そこでは、形式の方が、その内容よりも、より興味がある。それは、諸君の魂よりも、諸君の聴覚や視覚により多く訴える。したがって、それは、諸君を感動させるよりは、むしろ諸君を喜ばせるのである」


 よりわかりやすく言い代えれば「本当に完璧ならば、再現の芸術もアリだろう。しかし、この再現の芸術は、美しいかもしれないが、力強さに欠ける。そして、その過程は、俳優の心を動かしているのではなく、俳優が好きでやっているだけのことだ」。
 ここでいう力強さとは、観客を感動させるサムシング(なにか)ということだ。そして、確かに俳優が再現派である時、自分が感動していく過程に酔っていることは否定できないはずだ。再現派の俳優は、うまくやれている自分、うまくやれるようになっていく自分に酔っていることを、素直に認めざるを得ないはずなのである。
 日本で、新劇が廃れ、アングラへ移行し、小劇団が演劇の中核を担うようになったのは、演出至上主義における再現派の存在があったからだ。日本では、ある時期、スタニスラフスキー・システムを標榜しながら、その実態としては、スタニスラフスキーと正反対の演劇をやっていた人たちが新劇界の一部に存在していたのである。
 60〜70年代のアングラ演劇ブームとは、そういった権威主義的な新劇に対するゲリラ的反逆であり、80年代以降の小劇団ブームとは、新劇以来、固定化されてしまった演劇の可能性を探っていこうとする新しい流れであった。そして、結果としてスタ・シスは、新劇の衰退と共に廃れてしまった。
 しかし、ここまでを読み進めただけで正しく理解できるはずである。スタ・シスと日本の新劇における一部の演出至上主義者はイコールではない。アングラ派であり小劇団派が否定した「テクニック重視の精神活動なき演劇」を、スタニスラフスキーもまた50年以上前に否定しているからだ。
 かえって、結果として再現派になっている「なにが悪い」「現実として」という人たちは、自らが19世紀以前の演劇に流れていってしまっているということを深く反省すべきであろう。それは興行としては正解かもしれないが、表現活動としての演劇といった面においては、悪しき先祖返りなのである。

 『俳優修業 第一部』 第二章 演技が芸術である場合 より抜粋(P38より)
「諸君は、この芸術(注・再現)によって、大きな印象を受けることができる。しかし、その印象は、諸君の魂を暖めることもなければ、そこへ深く滲み入ることもないであろう。その効果は、鋭いが、しかし、永持ちはしない。諸君の、信頼よりは、むしろ脅威が目覚まされるのだ。ただ、驚くべき芝居じみた美しさか、あるいは、絵のような哀れさが、この芸術の精一杯だ。しかし、デリケイトで、深い人間感情は、こういった技巧の手には負えないのである。そういうものは、これが生身のまま諸君の前に現れる、その刹那の、自然な情緒を要求するのだ。それは、自然そのものの、直接的な協力を要求するのである」

 スタ・シスを理解する上で、なによりも重要なこと。それはデリケイト(繊細)で、深い人間の感情を演じられる俳優を育成するために、スタ・シスはある、ということだ。
 そして、スタ・シスにおける演技とは、俳優の内面の中に構築された自然の情緒の上に成り立つ。
 そこには、俳優の自我が占める空間など、隙間ほどでさえ存在しない。
 俳優は自分自身の自我から開放され、純粋に、役に生きること。
 戯曲という世界の中で、役が、役のあるがままの姿で存在すること。
 そして、俳優は、役の精神の容器となって、役として反応すること。
 これらをよく理解して読み進めれば、『俳優修業』は難解な書物でもなんでもない。
 現代に生きる演劇人にとっては、極めて自然で当たり前のことが書かれているに過ぎない書物なのである。


■第二章−3

 ここでは再現の芸術以前の、機械的演技・紋切り型演技、そして「芸術の利用」について注意をしている。
 スタニスラフスキーは、再現の芸術の全てを否定しているわけではない。再現派は過程のひとつとして心の働きを用いているし、それが完璧であった時には有効だ、ともいっている。だから、再現の“芸術”として認知しているのである。
 しかし、機械的演技・紋切り型演技についてはコテンパンだ。
 トルツォフは、“僕(主人公)”のやったいくつかの瞬間を除いて、あとのほとんどは紋切り型だと一蹴する。そして、そんなやり方をどこで手に入れたのか、を聞く。“僕”の報告をトルツォフは心から笑いまでする。「どんな風にして、最悪の種類の演技が始まるか、わかる」と。

 『俳優修業 第一部』 第二章 演技が芸術である場合 より抜粋(P45より)
「君は、試演の準備をしているとき、観客に印象を与えるという観点から、役に近づいた。なんでもって? 君が描いている人間の感情に対応する、真の有機的な感情でもってか? 君は、ちっとも持ってはいなかった。君は、ただ外面的にだけなら、模写することもできたような、完全な生きたイメイジさえも持ってはいなかったのである。君には、どうすることが残されていただろう? たまたま君の心に閃いた、最初の特徴をつかまえることだ。(中略)イメイジを生かすためには、日常の習慣が、長い間の慣用のおかげで誰にでもわかるようになっている符合だの、外的記号だのを作り出してくれているのである」


 これが紋切り型演技が生まれる出発点である。再現の芸術に至るには、「生きたイメイジ」が必要となる。だから、完全な時には。再現の芸術は有効なのである。
 しかし、極めて不完全なイメージの中、符号や記号でもって、役を演じようとすると、それは機械的演技、紋切り型演技となるのである。
 “僕”の場合は、ムーア人=黒人を野蛮人化する記号に流されていった。これは日本人=ハラキリ・サムライ・ゲイシャガールのようなものだ。
 “僕”はオセロウという人物ではなく、当時の白人全般が抱いていた野蛮な黒人のイメージを記号化していくことが役作りとなってしまった。オセロウという個人の性格や性情よりも、野蛮人の最大公約数をやることに夢中になってしまっている。
 ここでトルツォフは、機械的演技と紋切り型の違いをこうも言っている。
 機械的演技=本当の感情のかわりに、工夫した符号を使う。
 紋切り型演技(トルツォフいうところの“やりすぎ”)=漠然としたコンベンション(因習、風習、習慣)をそのままにやる。
 トルツォフは、紋切り型も初心者にとってはしょうがないことだが、これからは注意しろ、と言い、そうならないための道筋を示す。そして、役を生きる我々の芸術と、紋切り型の違いをはっきりと言う。

 『俳優修業 第一部』 第二章 演技が芸術である場合 より抜粋(P47より)
「芸術的真実は、引き出すのは難しいが、しかし、それは、決して飽きがこない。それは、始終、より好ましくなり、より深くにじみこんでいって、しまいには、芸術家ばかりではなく、観客までの、全存在を包み込んでしまうのである。真実で形成された役は成長するが、それに反して、紋切り型の上に形成された役は萎縮するだろう」


 なぜ、トルツォフ(スタニスラフスキー)は、ここまで言い切れるのだろうか?
 実は、私たちは、このことをいつも目にしているからだ。
 下手な演技のほとんどは、紋切り型である。そして、少しばかり演技しているように思えるものも、ほとんどは機械的演技の域を脱してはいない。
 たとえば、わざとらしさがたっぷりの演技。コメディタッチの作品であれば、登場から数分は観客に受ける。しかし、しばらくすると、観客であるあなたは最初の刺激は全くなくなる。それどころか、うんざりしはじめ、ストーリーやドラマへの集中が途切れてしまう経験はないだろうか?
 たとえば、もったいつけた、仰々しい演技。悲劇を悲劇としてして、ものものしくやっていたりする。観客は、やがて気づく。「次はこう来るぞ」というパターンを。そのうち、どれだけ意味のある台詞を吐いたところで、あなたはその役の台詞が無意味に聞こえるようになってしまう。こんな経験が、あなたにはないだろうか?
 上の例は、舞台を10本も観れば、嫌でも一度以上は体験してしまうものだ。
 紋切り型や機械的演技が、観客の作品への集中をそいでしまうのは、どれもが不自然な反応だからである。
 それに比べ、役を生きる芸術は、自然である。なぜなら、俳優自身の意識ではなく、役の意識が台詞を喋り、身体を動かすからだ。わざとらしさがあるわけなどない。
 役を生きている限り、その感情は、全てが真実である。嘘がのさばる隙間など、どこにもない。だから、観客は、目の前の俳優に自然を見出すのだし、作品世界に没頭することもできるのである。
(もっとも、だからといって、スタ・シスで育てた俳優の全てが、この領域に至るわけではない。しかし、そこに至るための努力を続けている俳優と、そんな領域など及びもつかず、コンベンション=因習・習慣にこだわった符号や記号を探している俳優では、成長過程にある演技に大きな差がつくのは当然だ)
 トルツォフの追及は、ソーニャ・ヴェリアミノーヴァへと至る。
 トルツォフは、ソーニャの、“かわいらしい手”や“かわいらしい脚”や“全身”を魅せ付ける演技を「芸術の利用」と断ずる。そして、「君が、観客にいちゃついて、カサリンを演じなかったということ」がいけないと注意をする。
 「観客にいちゃつく」と聞いて、あなたに自覚があれば、まだよし。全く自覚がなかったとしたら、それはかなり問題がある。
 俳優を目指す人間には少なからず、通常より高い自己認知欲求をもっている、と前述した。自己認知欲求そのものは人間である以上、しょうがないことである。しかし、その自我を開放しない限りは、いつまでも役に生きることはできない。

 私(安達成彦)は俳優志望者の中でも、声優を志望する若い人たちを教えている。私の教えていることは、声優にのみ通用することではない。指導の9割は俳優養成を目的とした指導であり、残りの指導は鍛えた能力をマスコミ仕事に応用するための指導だ。だから、よくこんな質問を受ける。「なぜ、普通の俳優志望者を教えないのですか」と。
 それに対し、私はシンプルに、こう答える。「私は、タレントになりたいだけの小僧や小娘を相手にしたくはないんです」。
 声優志望者のほとんどは、自分が進む道を演劇だと理解していない分だけ、純粋なのである。それに対し、普通の俳優志望者とされる若者たちは、自分の進む道を演劇だと理解しながらも、いわゆる映像俳優たちのタレント的な面に惹かれているのが見え見えなのである。
 「かっこいいだろ、俺! おらおらおら!」「かわいいでしょ、きれいでしょ、私! 見て、見て、見て!」といった自意識の臭いが、私にはたまらないのだ。

 そして、ソーニャが注意されているのも、これと同じ点である。
 トルツォフは、言う。演劇は、「個人的な目的」に利用されやすい。個人的な目的=美しさを誇るため、人気を得るため、に。それは芸術の敵である、と。

 『俳優修業 第一部』 第二章 演技が芸術である場合 より抜粋(P50より)
「君は、きっぱりと決心しなければならない、君がここへやってきたのは、芸術に奉仕し、そのために犠牲になるためか、それとも、君自身の個人的な目的に利用するためか」


 これは全てのクリエイターが噛み締めるべき言葉である。そして、これは俳優のみに限らない。
 演出にも、色々なタイプがいる。よくいるのは、権力をもって集団の上に君臨したいタイプであり、極めて個人的な自己実現のために集団を利用しているタイプだ。
 そうであってはならない、とスタニスラフスキーはハッキリと言い切っているのである。
 個を捨てよ、芸術のための奉仕者となれ、芸術の犠牲となれ、と。

 そして、私(安達成彦)が『俳優修業』の中で、最も好きな一節があって、トルツォフの試演批評は終わる。
 “僕”は、試演が有害無益であったと思い、その意見を述べる。すると、トルツォフは抗議をするのである。

 『俳優修業 第一部』 第二章 演技が芸術である場合 より抜粋(P51より)
「試演は、諸君が舞台でしてはならないことを教えたのである」

 私(安達成彦)が常々思っていることのひとつに、ほとんどの俳優志望者はあまりにも「褒められたがりすぎ」というのがある。だから、失敗することを異常なほどに恐れすぎている。加えて、悲観的なのだ。
 そうして、ほとんどの俳優志望者は、演技をどんどん小さくしていき、しまいには毒にも薬にもならない通り一遍の演技らしきもので収まりをつけてしまうようになる。
 トルツォフは、養成期間における失敗を、むしろ必要なものだと言っているのだ。失敗しなければ、わからないことがある、と。

 そして、失敗を実感した“僕”の真の俳優修業が始まる。

 『俳優修業 第一部』 第二章 演技が芸術である場合 より抜粋(P51より)
 「討論の終わりに、演出家がいうには、明日から、彼の課業のほかに、僕らは、声や身体を発達させるのを目的とする日常活動(声楽、体操、舞踊など…中略…)をはじめるのだということであった。それらの課業は、毎日行われるのだ、なぜなら、人体の筋肉を発達させるには、システマティック(注・理論的、段階的)で、徹底的な練習と、長い年月とが必要だからである」

 50年以上も前に、訓練の合理性や理論性、段階などが必要だと認識されているのである。21世紀に生きる我々が、非合理的・非論理的であっていいわけがない。

(『俳優修業 第一部』 第二章 演技が芸術である場合 おわり)



安達成彦のティーブレイク

■ 21世紀に生きるスタニスラフスキー・システム ■

 『俳優修業』を、スタニスラフスキー・システムをより深く理解したいのであれば、急いで入手して欲しい書物がある。

PT パブリックシアター 第11号 ISBN4-8462-0243-7
発行/財団法人 世田谷区コミュニティ振興交流財団 世田谷パブリックシアター
制作・発売/れんが書房新社 〒160-0008 東京都新宿区三栄町10-101 Phone/03-3358-7532

 この『PT』は、多分、雑誌コードの書物だと思う。在庫が売り切れ次第、二度と手に入らなくなる可能性がある(2001年5月現在、東京の大型書店には店頭在庫あり。地方在住者の場合は、近所の書店から取り寄せるか、インターネット通販などで入手してください)。
 この11号は「特集・演技メソッドの彼方に」と題して、フランスの演劇人ベルナール・ドルトの「【メソッド解題】俳優の大冒険−スタニスラフスキーの『俳優修業』を読む」が翻訳(訳・横山義志)が掲載されている。
 ドルトの「俳優の大冒険−スタニスラフスキーの『俳優修業』を読む」は、久々に私を燃えさせた演劇論だ。夢中になって、二度三度と読み返し、今もパソコンの横に置き、ふとした時に読み返せるようにしてある。
 この中でドルトは、スタニスラフスキーの再評価と共に、スタニスラフスキーの批評も行っている。また、『俳優修業』成立の裏話について書いている。

 私が、自分のhpでスタニスラフスキーを取り上げようと思い立ったのは、激しい誤解がスタニスラフスキーを覆っていたからだ。
 スタニスラフスキーという単語そのものが権威としてあがめられる一方、小説形式で語られる『俳優修業』をしっかりと読み込めている人がほとんどいないという現状を、演劇人としての私は愁う。
 権威の否定としてのスタニスラフスキー批判、アングラ支持・小劇団支持=新劇攻撃のためのスタニスラフスキー批判、アマチュアリズム肯定=プロフェッショナリズム否定のためのスタニスラフスキー批判など、あまりにも幼稚な動機のスタニスラフスキー批判が闊歩している。
 だから、私は、純粋に『俳優修業』を読み解くためのサブ・テキストが必要であると考えたのである。

 実際問題として、スタニスラフスキーは神格化しすぎてしまった。
 スタニスラフスキー批判ばかりが目に付くような気がする人も多いだろうが、演劇の現場においては、まだまだスタニスラフスキーは主流派である。批判している層はアマチュア系演劇人が多くを占め、プロフェッショナル系演劇人のほとんどはスタニスラフスキー支持といっても過言ではない。
 しかし、ここにも問題があるのだ。
 スタニスラフスキーを批判しているアマチュア系演劇人は、権威であるスタニスラフスキーを最初から目の敵にしているため、『俳優修業』に書かれていることを普通に読もうともしない。
 また、スタニスラフスキーを支持している層にも、かっての自分の恩師からスタニスラフスキーは偉大だ、と教わったから、『俳優修業』をバイブルとして盲信しているだけの人が多かったりする。無論、そういう人は『俳優修業』を理解して読んではいないのだ。

 今回、この俳優修業第一部第二章を解説するにあたり、多大な労力を要した。自分でも驚いているのだが、400字詰め原稿用紙にして、なんと70枚近い大作となってしまっているのだ。小説形式になっているため、まわりくどくなっていたり、繰り返しになっている部分を演劇初心者にわかるように解体するのは、ひじょうに大変な作業である。
 この解説をやっていて、誰が一番勉強になっているかといえば、他ならぬこの私なのだ。
 そして、私は確信を強くしている。
 スタニスラフスキーの「役を生きる」ためのシステムは、けっして古びてはいない。それどころか、その過程の多くは、現在進行形の最先端の演劇シーンと深く結びついている。今回、第二章を解説するにあたっては、この点と、全くの演劇初心者でもわかるようにという配慮をしたつもりである。

 スタニスラフスキー・システムが陥れられた「いわれなき批判」の数々は、アクターズ・メソッド(メソッド演技)にも襲い掛かりつつある。
 現実としてアクターズ・ステューディオで訓練を体験したことがない人間たちが、『メソッド演技』や『メソードへの道』を読んだだけで、「私はメソード・トレーナーです」と名乗りを挙げている。
 そして、そんな人々が、アクターズ・メソードへの誤解を広げていってしまっているのが現状だ。
 リー・ストラスバーグとエリア・カザンは、スタニスラフスキーの『俳優修業』を元として、メソード演技を構築した。元々、この2人はスタニスラフスキーをアメリカへ招聘して、アメリカ版モスクワ芸術劇場をやりたかったのだが、スタニスラフスキーに「私のシステムは、ロシアのものだ。君たちは、アメリカのシステムをつくりなさい」と言われて、スタニスラフスキー・システムをアクターズ・メソッドへ進化させたのである。
 ところが、現在の日本においては、アクターズ・メソッドを指導する層、アクターズ・メソッドを勉強しようという層が、『俳優修業』を読みこなせていないのだ。まるで、スタニスラフスキー・システムとアクターズ・メソッドは、全く違う別物だと思っている節まである。
 明言しておくが、スタニスラフスキー・システムは、それだけで完成されきったものではない。
 20世紀初頭に演劇の新しい時代を開いたものであって、その先を切り拓いていくには、まだまだ多くの変革が必要となる。
 アメリカでアクターズ・メソードが生まれたように、日本でもスタニスラフスキー・システムを継承した上での次のステップが必要なのだ。
 以前、私が敬愛する恩師のひとりであり、演出家でありメソード・トレーナーである守輪咲良さんとお話したとき、こんなことを言われた。
「スタニスラフスキー・システムって、もはや、原典でしかないのよ」
 アクターズ・メソッドにおいてはもちろんのこと、フランスのルコック・システムにおいても、生徒がスタニスラフスキー・システムを理解していることは、常識であり教養のひとつでしかない、と。
 全くもって、その通りだと思う。
 おおよそ、世界の演劇シーンのほとんどは、スタニスラフスキー・システムを原典として、新たなシステムを作り出すための胎動期間なのだ。
 そのためには、スタニスラフスキー・システムを、正しく理解することが第一歩なのである。
 そして、『俳優修業』とは、実用書なのだということを、強く意識して欲しい。
 スタニスラフスキーが、なぜ、小説という形式で、自分の演劇観であり養成術を語ったのか?
 それは、俳優なら誰でも経験するであろう失敗の数々を、俳優なら誰でも陥る可能性のある失敗の数々を、リアルに読者に感じて欲しかったからだと私は考えている。つまり、俳優ならば、痛いほどによくわかる表現形式なのだ。
 特に、この第二章は、その面が色濃く出ている章であろう。
 なによりも大事なことは、とにもかくにも『俳優修業』を手に入れて欲しい。
 私の、この解説も、あくまでもサブ・テキストとしての意味までしかもっていない。どんなに高かろうが、どんなに読みにくかろうが、それを乗り越えて、未来社刊『俳優修業』を読んで欲しい。


 Stanislavskii Lab は、みなさんの手元にスタニスラフスキイ著/山田肇訳『俳優修業』(未来社刊)があることを前提に書かれています。お近くの書店に見当たらない場合は、書店に発注してください。
(ISBN4-624-70023-6 C0074)



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