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| 『俳優修業』は、演劇学校(モスクワ芸術座の養成所がモデル)に入学した“僕”の日記の形態をとっている。 そして、“僕”の指導者である演出家トルツォフはスタニスラフスキー自身がモデルだ。 スタニスラフスキーは『俳優修業』において、自分の築き上げた俳優養成術を、“僕”の成長物語として再現しているのである。 演出家に対する“僕”やその同期の疑問の描写が、読者の疑問の代弁となり、 それに対する演出家トルツォフの言葉は、スタニスラフスキー自身の言葉であり、 “僕”の内面変化過程とは、スタニスラフスキーが理想とする俳優の成長過程を示しているのである。 *注1/『俳優修業』中に度々出てくる学生演劇とは、「劇団附属養成所という学校に通う生徒=職業俳優の志望者」の演劇という意味である。現代日本における大学の演劇サークルや高校や中学の部活動演劇のことではない。 *注2/本来、『俳優修業』中に出てくるアマチュアとは、職業俳優ではない俳優という意味である。が、現代日本においてはタレントさえも職業俳優とされてしまうため、「システィマティックな訓練を受けていない俳優」と理解すべきだと私は考える。 『俳優修業』第一部 第一章と第二章を総括するならば、「俳優が陥りやすい失敗」を示している。 第一章では“僕”が冒した間違いのひとつひとつを、第二章では「なぜ、それらが間違いなのか」を説明し、「これから進むべき道」を示唆して締め括られている。 読解のポイントとして、これらの失敗は「俳優の未熟さに起因する失敗」と、「スタニスラフスキーが否定した19世紀演劇の影響による失敗」のふたつに分かれるところに注目したい。 いわば、第一章と第二章とは、スタ・シスが否定する演技と、スタ・シスが目指す演技を説明しているのだ。 (第一章 1) 主人公の“僕”は、実にわかりやすく数多くの失敗を示してくれる。 『オセロウ(オセロ)』を読んで、2ページとたたないうちに演じてみたくなったといい、タオルを白い頭巾(ターバン)とし、大きな象牙の紙切り(ペーパーナイフ)を短剣に見立て、お盆を盾として悦にいる。 外見・外観からのアプローチとは、初心者なら誰でも陥る失敗のひとつだ。 外観からのアプローチは、俳優をその気にさせる効果はもっている。しかし、役の内面性の表現には役立たない。 ひとりの俳優が、同じ衣装を着て、同じメイクをし、「王様」と「王様のふりをしている乞食」を演じた場合、観客から外見による差異は見えない。 大切なことは、「王様という立場にある、役の人格」を表現することであり、「王様のふりをしている乞食の、役の人格」を表現することなのだ。 この人格といった内面が観客に示されれば、観客は同じ衣装とメイクである「王様」と「王様のふりをしている乞食」というキャラクターを見分けられる。 演技とは、“見た目”上のものだけではない。観客に示すべきは、役の人格=内面なのである。 では、この内面とは、どこから根拠を得ればよいのか。 ホン(戯曲、シナリオ)からである。 なのに、“僕”は、『オセロウ』を2ページと読まぬうちに役づくりを始めてしまう。 『オセロウ』のストーリーとドラマ、テーマを熟知しないうちに役づくりをしたのでは、そこから導かれる役づくりが「表面をなぞっただけのもの」になってしまうのも当然だ。 “僕”は、自分が「文明開化風」だといって、アフリカ人の野生を掴もうと努力する。 一瞬、内面に近付く作業のようにも思えるが、これもまた間違いのひとつだ。 なぜなら、そこにアフリカ人のイメージはあっても、ムーア人であるオセロウという人物はいないからである。 このように勘違いの塊である“僕”は、最初から大きく躓くのであった。 (第一章 2) スタニスラフスキーはここできつく遅刻を戒めている。「なんだ」と思う人もいるかもしれない。 しかし、この点もまた、今後、『俳優修業』を読み解くにあたって大事なポイントとなるのである。 『俳優修業』は、演技術だけのものではない。1本の作品を仕上げる集団としての倫理も説いているのだ。 ここでも、まだ“僕”は自分の失敗に気付いていない。そして、ここでは“僕”のアプローチが失敗である証拠として、“僕”が不安になっていく様を描写している。 (第一章 3) 最初の稽古において、“僕”は科白に手こずる。 それまで、ただひたすらに外面からのアプローチしかしてこなかったのだから当然といえよう。 アマチュア俳優の中に「言葉は空虚だ」と言い張るタイプがいる。「言葉にすると嘘になる」というのは詩的な主張ではある。が、その主張とは、“僕”と全く同レベルでしかない。 そして、“僕”はあれほど練習した、歯をきらきらさせたり、眼をくるくるとさせたりすることもできず困惑する。外見からのアプローチによる「必然のない所作」なのだから、これもまた当然だ。 ここで彼が手にしたのは気分転換ぐらいでしかない。 (第一章 4) “僕”の混乱はますますひどくなる。 初心者ならば誰でも陥る、ある種の地獄だ。 ここで注目すべきは、まだ“僕”には救いがある、ということだ。 “僕”は自分のやったことを失敗だと、素直に認めている。この素直さは、俳優にとって長所のひとつだ。(演出から注意されても、言い訳を重ねて自己保身に走る俳優に比べれば、はるかに将来が期待できる) (第一章 5) この短いパートは、“慣れ”を示している。 端的にいえば、稽古を続けるうちに“僕”は、段取りには長けてきたということでしかない。 (第一章 6) “僕”は、ついに舞台での稽古を経験する。 “僕”は極度の緊張から、集中ができない。“僕”ができたことは、機械的に話したり演じたりするだけだ。 つまり、段取り以上のことはなにもできていない。 ここで“僕”は、初心者にはありがちな思い違いをする。段取りがうまくいったことを、「できた」と思い込むことである。 (第一章 7) “僕”の緊張と、それに伴う集中力の欠除は相変わらずだ。そして、それは焦りへとつながる。 (第一章 8) 前日と家具の位置が変わってしまっただけで“僕”の混乱は最高潮に達し、自動的な演技(段取り)すらちょっとしたことで途切れがちとなる。 意気消沈して帰宅した“僕”は同期のレオと語り合う。“僕”はレオとの会話の中で、やっと役の内面について考え始める。やっと、本当にやっと、ムーア人の背負った不幸について思いを巡らせ、共感を覚えるのだ。 “僕”はまだまだ未熟な俳優ではあるが、役への共感によって「泣かんばかりであった」といえる感性は素晴らしい。 これは感情的であることへの賞賛ではない。役を自分の中に取り込もうとする姿勢、素直さの問題である。 (第一章 9) 試演本番当日。 “僕”は、生まれて初めて舞台に立つ者であれば、誰でも感ずる緊張と混乱の嵐に巻き込まれる。 ここに記されている緊張と混乱は、舞台に立った者であれば誰でも経験するものだ。自分の過去を思い出しながら読んだ人も少なくないであろう。 “僕”からは計算も予定も段取りも失われる。“僕”自身が失敗だったと自覚し、それまでに執着していた全てを捨てて自由になった瞬間…… “僕”は台詞を内面から発する。
安達成彦のティーブレイク
Stanislavskii Lab
は、みなさんの手元にスタニスラフスキイ著/山田肇訳『俳優修業』(未来社刊)があることを前提に書かれています。お近くの書店に見当たらない場合は、書店に発注してください。
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