勝田声優学院の受験資格について
  Date: 2000-11-30 (Thu)

 掲示板で続いていた受験資格チェーンですが、一応の決着(?)を見ました。

 結論……通信制・定時制の高校生も、一般高校生と同様に勝田声優学院受験を認めます。(良かったね)
 でも、勝田声優学院においては、高校生は学業最優先であることを忘れないでね。
 高校中退して、通信制・定時制に通っている人は、どんなことがあっても、今度こそ高校を卒業しなくちゃダメだよ。
 もし、勝田在学中に高校を中退した場合には、勝田も辞めてもらいます。

 「声優にとって、高校になんの意味があるんだ? そこまでして、高卒にこだわる意味ってあるのか?」と思う人もいるだろう。
 でも、そういうのって議論で正しさを云々するものじゃないんだよ。大きなお世話だと思われるだろうが、それが社会であり世間の常識だと受け入れて欲しい。
 私たち養成所講師というのは、公教育……中学や高校の教師ではない。あくまでも芝居を教えるのが仕事。
 でもね、それ以前の問題として、私たちは大人でもあるんだよ。
 高校を卒業していないことが、人生において、どれだけのデメリットをもたらすか、ということも、君たち以上によく知っている。

 なによりも、学生として、養成所に通おうとしている人たちに問いたい。
 君たちは、養成所費用を誰に出してもらうのかな?
 ほとんどの場合、金の出所は親御さんでしょう?
 中には、バイトして、きちんきちんと学費を親に返す人もいるだろう。それにしたって、親が工面してくれなかったら、どうしようもないのが現実じゃないのかな?
 よっぽどの変わり者でもなければ、今の時代、せめて、高校ぐらいは卒業しておいてほしいという親の気持ちも、私たちは大人として痛いほどにわかるんだよ。
 それが、高校は中退するわ、役者になりたいと言い出すわ、その費用は出してくれというんじゃ、私たちだって申し訳なくて仕方がないんだ。
 私は三十路半ばになりつつも、バツイチで独身、子どももいない。それでもね、親の気持ちというものは、君たちに比べれば、まだ、わかるものなんだよ。
 また、逆を言えば、私は君たちの気持ちもわからないではない。というよりも、痛いほどにわかる。一応、年齢的には、君たちの親に比べれば、君たちに近いからね。
 いつでも大人の味方というわけでもなければ、いつでも子どもの味方というわけでもない。
 だから、なるべく、どちらも納得するように仲立ちしたいと考えている。今回のは、そういうことだと思ってください。

 そして、もうひとつ、大事なこと。
 これは声優志望者全員に……

 大人というのは、年齢さえ重ねればなれるものではない。
 本人に、大人になろうという意志があるかどうかを問われる。
 世間には、大人の年齢に達していても、大人として生きていけない人は沢山いる。
 だから、相手が大人の年齢に達しているからといって、大人としての振るまいを求めないこと。期待しないこと。
 そして、自分は、大人となるべく、努力をすること。
 素敵な大人、かっこいい大人…… なんでも、いい。
 子どものままでいようなんて思っちゃいけない。
 自分自身の個人的な損得勘定抜きで生きていけるような、そんな大人になってほしい。
 ホンモノの大人になろうな。
 君たちが知らないだけで、世の中にはホンモノの大人が沢山いるんだ。
 今、学生のキミ。
 キミが知っている大人は、せいぜいが学校の教師か、自分の親までだろう。
 社会は、そんなに狭いものじゃない。
 大人は、そんなに少ないものじゃない。
 すごい大人ってのが、いっぱいいるんだよ。
 そういう大人に出会ったとき、認めてもらえるような人間になるべく、自分で自分を律しよう。
 大事なことは、自分自身だよ。
 周囲を言い訳にしちゃいけない。
 親が悪い、教師が悪い? そんなものに負ける自分自身が、いちばん悪いんだということを忘れるな。
 一人前の大人になろう。
 そんな生き方をすればこそ、見えてくるよ。
 友人のありがたさであり、親のありがたさであり、恋人のありがたさというものがね。

 頑張ろうな!

実は…私も中退予備軍であった
  Date: 2000-11-29 (Wed)

 最近、高校中退関連の質問が掲示板で相次いでいる。その他、個人的な相談メールの中にも、高校中退に関わることが増えている。

 私が高校性の頃…… 今から18年ぐらいも前から、高校中退者の数というのが激増した。
 私は、いわゆる丙午(ヒノエウマ)で、まあ、ろくでもない世代である。
 中学の頃は校内暴力絶頂期。金八先生の「俺たちは腐ったミカンじゃない!」とゆー加藤クンの名台詞であったり、♪センセー、あなたは大人の代弁者なのか〜♪の尾崎の世界が、「やんか、こら? ああん?」の『ビーバップハイスクール』的世界が、ごくごくフツーに展開されていた。
 なんてったって、男子生徒のほとんどは矢沢永吉かクールスか横浜銀蠅のファンで、イマドキのビジュアル系バンドとは一切無縁な男クサイ世界で「土曜の夜はバリバリィ〜!」とほざいていたのである。
 日曜日ともなれば、竹の子族だ、ローラーだと原宿ホコテンに出かけ、夜は夜でライブハウスでパンクスだなんだといってはフライングしてた馬鹿がやたらと多かった。
 そんな連中が高校へ進学したのである。中学は義務教育だからイヤイヤながらも行っていたが、高校は行きたくなけりゃ行かなくてもいい。そりゃ、中退者も激増するわな。
 ってゆーか、うちの高校はそのスジの世界では高名な極道を輩出している名門不良学校で、その上、吹き溜まりのような商業科だったから、やたらと中退者が多かったんだよね。1年の時は52人いたはずなのに、卒業時には41人だったもん。
 教室の中で抗争ができるくらい、暴走族関係者がワラワラといて、東京の主要暴走族ステッカーならなんでも手にはいるようなクラスだったのである。校内の喧嘩で殺人事件が起きて、ワイドショーの取材でヘリコプターから空撮されるような高校だったのだ(事実だよん)。

 御多分にもれず、私も中退予備軍であった。
 高校へ行かず、ガクラン姿でしょっちゅうパチンコの開店を待っていた。当時は羽台とフィーバー台が半々で、羽台で玉を増やして、フィーバーで勝負! なーんてことができたからね。
 で、バイトしまくっていた。中学の頃から、オールバック・リーゼントで喫茶店でバイトしていたし、高校に上がってからは増え始めてきた24時間コンビニで深夜バイトに入っていた。
 なーんか、かったるかったんだよね。中学ン時みたいな無茶をする気はないし、かといって、なにかやりたいことがあるわけではない。
 バイトが楽しかったのは、一所懸命働いた代償がキチンと手にはいるから。親に買ってもらったステレオ・セットなんかより、自分のバイト代で買ったウォークマンにこそ価値があった。たとえ、ファーストフードのハンバーガーであろうとも、デートの時にバイト代でおごれる甲斐性みたいなものが嬉しかったりした。
 池袋の大都会という居酒屋で朝の6時までガクランのまま飲んで、そのまま、タクシーで高校へ登校し、酒臭い息のまんま、下校の時間まで居眠りこいていたことなんかも、よくあった。

 だが、そんなノホホン生活も、いつまでもは続かない。うちの高校は1年間に30日間の欠席があると進級不可(遅刻・早退は3回で1日の欠席とみなす)。私は1年の2学期終了時点で欠席25日に達し、親を呼び出されてしまったのである。
 私自身は「まだ、5日間もあるんだから楽勝じゃん。3学期なんて短いんだしさ〜」とノンキなものだったが、親は烈火のごとく怒り狂った。クリスマス・デートから帰ってきたら、コンコンと説教をされ、ようやく自分の未来について考え始めた年末であった。
 冬休み中、「さーて、どうするか」と考えた。
 中退は、ひとつの選択肢であった。が、中退するんなら、就職するのがスジだ(80年代不良は、スジにはうるさいのである)。じゃあ、どんな業界に就職したいか? 飲食業界? 趣味と実益を活かしたパチンコ業界かゲーセン業界か? テキヤにくっついてタコ焼き売って歩くのも楽しいのだが、すると、彼女と別れなくちゃいけないから諦めた。(当時、私に彼女がいなかったら、今頃はテキヤになっている可能性は高かったのである)
 中退しないにしても、なにか、やらなくちゃいかんな、と本能的に思った。打ち込めるものがないと、今の怠惰な生活がウダウダと卒業まで続くのは目に見えている。部活か? うちの学校の運動部はハンパじゃなくキツイ。それに2年から運動部に入るのは、なんとなくダサくてイヤだ。(もし、うちの高校に応援団があったなら、迷うことなく入団していただろう。その場合、このhpは応援団hpとなっていたかもしれない)
 「なんか、おもしれぇことはないかな?」と考えているところへ、友人から電話があり、勝田話法研究所を受験するという。で、一緒に受験しないか、と。正直言って、私は声優というものをほとんど知らなかった。友人は私が「DJになりたいなあ」と言っていたことを覚えていたのである。ちなみに私はその時、完璧に忘れ去っていたんだけれどもね。あはは。
 声優とゆーのはよくわからんが、話法を研究するというなら、DJの勉強にもなるだろう。「よし! 俺はDJを目指すことにするぞ」程度の意識で、私は勝田を受験し、合格したのであった。(ちなみに友人は不合格。当時、勝田の競争率は2倍ぐらいあって、落とされた人が多かったんよ)
 あとは、もう、疾風怒涛であった。私自身が演劇と相性が良かったのだろうし、良い講師と巡り合えたこともあって、のめりこみまくっていったのである。
 ちなみに…… 肝心の高校の方だが、2年、3年と欠席は減った。それぞれ年間欠席20日以内だったかな(丸一日は休まず、遅刻・早退を駆使したからでもあったが)。勝田へ行くついでに高校へ行っていたから、その結果として減っただけというのが真相だろう。高校の授業中は戯曲やら演劇論を読みまくった。というよりも、戯曲を読む時間が授業中にしかなかったのである。あ、そうか。戯曲を読むために高校へ行っていたようなもんだ。
 なによりも、高校生活に対しての希望みたいなものを一切もたなくなったというのも大きかった。俳優修業に打ち込んでいた分、高校生活と距離感をとれたようなものであった。

 さて、こんな昔話をしたのは、私自身、高校を中退する気持ちもわからないではない、ということをわかってほしかったのである。
 つまんないよ、高校生活なんて。まあ、うちの学校は不良ばっかり集まっていたから、それなり以上には楽しかったんだけどもね。それでも、やっぱり、高校はつまらないと思う。
 今だから言っちゃうけど、私なんか、よくも高校1年の時、欠席日数が25日で済んだものだと思う。当時、付き合っていた彼女に「ちゃんとガッコ行きなさいよ!」としょっちゅう叱られていなかったら、絶対に高校1年の段階でドロップアウトしていただろうね。
 また、教師ってのも、なんだかウザってぇ連中なんだよね。おしなべて教師は「キミタチ、社会は厳しいんだぞ!」とかよく言うけど、「ああん?」ってなもんだ。おまえら教師って、大学出て、また学校に戻ってきたんだろ? ガッコしか知らないじゃん。社会なんか出たことねーじゃん。なんで、そんな奴が社会の厳しさ云々言うかねってなもんだ。
 同級生ってのも、なんだか、ウザいんだよな。たまたま同じクラスになっただけじゃん。それだけの理由で、40人も50人も友だちだとか言われたって、実感わかねーってーの! 嫌いな奴や合わない奴がいて当たり前だよ。そんな連中のために連帯責任なんかとらされると、脳天大噴火だっちゅーの。
 それに、今の子ってナイーヴだもんね。ガサツで単細胞な私なんかと比べたら、悩みが多いんだろうなあ。昔と違って、陰湿なイジメも多いらしいし、余計に高校へ行きたくなくなって当然だよなあ。

 でもね、でもなんだよ。
 「高校中退」という結論を出したのは、誰かということをよーく考えてほしいんだ。
 自分の子どもが高校中退すると言い出したら、どこの親だって「高校ぐらいは卒業しておけ」と説得するのがフツー。高校を卒業しておかないと、社会に出てから様々なデメリットがあると、散々言われているはずだ。
 でも、中退した。つまり、それは自分で出した結論なわけだ。
 中には、教師や校風や同級生と合わなくての不登校が原因になって、高校へ進学できなかったり、または高校を中退した場合もあるだろう。自分のせいばかりじゃない、というケースね。
 でも、やっぱり、一度は「それぐらい我慢ができないと、社会に出てから苦労するよ」ぐらいは言われなかったかな?
 ……実際、苦労するんだよ、養成所や劇団であっても。演出や講師によっては、中学や高校の担任どころの騒ぎじゃないんだよ。先輩の締め付けや、同級生との相性もね。演出とか指導と称して、自分の子どもか孫みたいな年齢の生徒に嫌がらせする講師や演出は現実に存在するんだよ。

 勝田声優学院は、なぜ、中卒を受け入れないのか、という質問というか抗議のメールを何度か受けたことがある。
 いやあ、私に言われても困るんだけどね、ホントの話。だって、創始者の方針だもの。
 夜学や通信制を認めないのは差別だという意見には、私自身も同意する。だが、私のモノじゃないんだよ、勝田は。まあ、なんらかの機会に勝田学院長と話しておくのはやぶさかではないのだが、でも、説得しようという強い意志を私は持っていない。
 なぜなら、高校中退を原因とする夜学や通信制というのは、そのデメリットを本人が十分承知の上で進んだ道だとも思っているから。

 今、中学生やら、一〇代半ばぐらいの人たちにはきつい言い方になるんだけれども、自分が出した覚悟や決意といったものには、ちゃんと責任をもってもらいたい。
 中退だって不登校だって、自分自身でそれが正しい道であり選択であると判断した結果でしょ?
 周囲の大人のほとんどの説得を振り切った結果なんだよね?
 その上で選んだ道なのだから、それに派生するデメリットは、ちゃんと請け負うべきだよ。だって、義務教育が終わった時点で学生じゃなければ、社会人になるしかないんだから。
 女性は16歳ともなれば、結婚して、子どもを産めるんだよ? 男だって18歳ともなれば、結婚して一家の長になれるわけだよ。
 そういう年齢なんだよ、義務教育を修了した時点というのは。
 ホント、自分の行動であり思考には責任をもってほしい。そういう努力をしてほしい。

 なによりも、我々の業界は保守的です。
 学歴社会ではないけれど、高校ぐらいは出ておかないと、養成期間中であっても、かなり嫌な目に遭うからね。
 中退を受け入れない云々で勝田声優学院を責めるなら、勝田声優学院は受験しなければいい。勝田以外にも養成所はいっぱいあるんだから。私は知らないけど、中卒を受け入れてくれる養成所もあるらしいし。ただ、それだけのことでしかないんだよ。

 高校を卒業するなんてのは、そんなに難しくないよ。
 中間テストだろうが期末テストだろうが、養成所のテキストである台本を1週間や2週間で覚えたり、それを何ヶ月もかけて練習して舞台にかけることに比べれば、はるかに楽。
 声優として、プロダクションのジュニアに残ったり、オーディションを突破して役についたりするのに比べれば、高校を卒業することのほうがはるかに楽。
 このことも忘れないでね。

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☆60000hit達成! パンパカパーン! さて、来年6月のオープン2周年にはいったいどれぐらいいくか? 念願の10万hitに達するかな?(笑)

演出もピンキリ
  Date: 2000-11-22 (Wed)

 先日、こんなメールをもらった。
 「私は『素直な芝居』ができないといわれ、役づくりをしてはいけないと言われています。とにかく台詞を憶えてきて、ミザンスを間違いなくやれといわれており、それ以上はするな、と」というものだ。
 ふーん、ミザンス完璧にして、素直な芝居ねえ……と苦笑いしてしまった。

 バンタンの土曜コースでは、滑舌とフリーエチュードを中心にやっている。先月までは1人でやるエチュードで、今は2人でやるエチュードとなっている。
 たとえば、こんな「お題」である。

★カップル
 場所・部屋。
男「……まだ怒ってるのか?」
女「…………」
男「……ごめん」
女「…………」
男「ごめんってば」
女「…………」
男「……許してくれないわけ?」
女「……うーそ、もう許してるわよ」
男「なんだよ、もう」

 このフリーエチュードにおける「なにが原因でケンカしたのか?」は、女性が主導する。そして、最終的に許すかどうかも、女性が決める。
 ……で、男女の組み合わせだが、これはジャンケン。まーったく予測がつかない。ってゆーか、つけられないのである。
 とにもかくにも、男は受ける一方。女性がどれくらい怒っているかなどは、ゼーンゼンわからない。
 女性も、最初は許すつもりで始めていても、男の謝り方が気に入らなかったら、途中から許すのをやめてもいい。
 だって、「……うーそ、もう許してるわよ」と言っていたって、許していないってことは現実によくあるハナシじゃん。

 さて、このエチュードで指導していることはナニカ?
 「ナマの反応」というやつである。

 世の中に「自然な演技」を求める演出は多い。
 芝居っぽさや芝居臭さを否定すること…… そのベクトルは正しい。スタニスラフスキーから始まった20世紀演劇が目指すのは「自然な演技」である。
 王様役といったら、ふんぞり返って、低い声でもったいぶって喋り、ゆったりとした大袈裟な身振り手振りを駆使するというような類型的演技を否定し、
 王様のパーソナルな面に迫り、その王様ならではの「反応」をすること。
 それこそが「自然な演技」における役づくりというものだ。
 演技の自然さ、不自然さを左右するのは、雰囲気やムードではない。その役としての「反応」である。
 不自然な演技とは、不自然な反応であり、
 自然な演技とは、自然な反応に他ならない。
 ここまでは演技初心者にもカンタンにわかる論理である。
 で、バンタンでやっている2人エチュードとは、素直な反応というものはどういうものか、ということをわからせるためにある。
 主導権を握っている女性はともかくとして、男は全く次の芝居の予測がつかない。受ける一方のうちに、いつの間にか、ナマの反応をしてしまう。
 それが狙いである。

 さて、問題の「素直な演技」なのだが……
 幸いなことに、私は過去に「素直な演技」などという曖昧なダメ出しを受けたことはない。
 多分、その問題の演出家が言いたいことは、スタニスラフスキー流に言えば「自然な反応を」ということなのだろう。
 が、しかし、なんか違うんだよね。
 冒頭のメールによれば「役づくりをするな」とか言われているが、それを戯曲でやるのはいかがなものか?
 なぜなら、俳優がホンを読んでいるのは、どこをどうやったってひっくり返せない絶対的な事実だからだ。
 ホンを読んでいるということは、次の展開を知っていることであり、ストーリーの最終的な終結点を知っているということでもある。
 なのに、役づくりをするなといわれても、それは困難という以前に不自然なのだ。
 しかも、明かな矛盾もある。
 素直な演技=自然な反応なのだとしたら、なぜ、ミザンスを完璧にすることを求めるのか?
 これ、矛盾以外のナニモノでもないよ。
 だいたい、完璧なミザンスを目指すのって不自然だぞ? それは練習に練習を積み重ねて、何度演じても寸分違わぬ状態にするということに他ならないんだからね。いわば自動的演技というやつで、類型的演技と同じく否定されているんだよ。
 台詞と同じく、ミザンスだって、役の反応から生まれるものなんだ。何度も何度も練習したミザンスを要求しておいて、素直な演技ってナンジャラホイ?
 きっと、その演出って、平気で「きっかけ芝居」を要求するんだろうなあ。「はい、○○のタイミングで××の台詞が入る」とか「××のタイミングで○○は立ち上がる」とかね。うわー、やだやだ。20世紀演劇じゃないよ、そんなの。

 要するに、その演出って、俳優による解釈を否定しているだけじゃん、ってなことなのだ。
 言葉こそ違うが、俳優は演出の言いなりになればいいのだ、と言っているだけのこと。
 解釈は全て演出のモノというんだったら、演出辞めて欲しいなあ。

 なによりも、養成所なのであれば、じゃあ、どうすれば「素直な演技」とやらになるのかを、きちんと説明する義務が講師にはあると思うのだ、私は。
 せめて、自分が考える「素直な演技の正体」ってやつぐらいは、キチンと言葉で説明しなくちゃダメだよ。
 言葉で説明できないんだったら、その人は演出じゃないよ。俳優と観客が説得と納得の関係であるように、演出と俳優だって説得と納得の関係なのだ。
 説得すること=説明することを厭うようなら、それは曖昧なムード演出・イメージ演出なんだから、馬鹿にされてもしょうがない三流演出だね。

 先日、野沢雅子さんと会食の機会があった。正味4時間ほどお話しして…… まあ、本題は、あんまり明るい話題じゃなかったんだけれどもさ……
 本題から離れたところで会話しているうちに、こんな言葉が野沢さんから出てきた。
「結局、『役者演出』って、自分の枠の中でしか作品を仕立て上げられないのよね。自分が目指している演技しか認められないのよ。私はね、そういう『役者演出』を沢山知ってるから、自分はそうはならないように努力しているの」
 やっぱり一流は違うなあ、と思いましたよ、ハイ。
 スタニスラフスキー著『俳優修業』には、「役者は、人形になってはいけない。演出は、役者を人形にしてはいけない」ということが、何度も何度も言葉を変えて出てくる。
 俳優自身の創造的活動を尊重することがスタニスラフスキー・システムの大前提であり、その後にアメリカで展開されたメソッド演技の前提だ。
 たったひとりの演出に気に入られることに躍起になっているだけじゃあ、ろくな俳優にはなれないよ。
 曖昧な演出に振り回されたところで、たかが知れているんだよ。だから、好かれるとか嫌われるという下世話なレベルの人間関係が、教室で展開されちゃうんだって。

 まあ、みんな、苦労してください。
 演出にはピンからキリまでいるということを知る機会だからさ。所内発表や教室でやっている分には罪がないよ……多分ね。
 悪い演出を知らなかったら、良い演出はドコが良いのかもわからないものです(笑)。

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★59260HIT突破! さんきゅ♪ 60000HITは年内だなあ。めでたし、めでたし♪ さて、2周年の2001年6月23日に70000HITを達成できるかな?

★右下のオヤシラズを抜歯した。私のオヤシラズは、まっすぐ生えていない。臼歯に向かって、真横に生えている。おかげで歯肉切開し、ドリルでオヤシラズに穴を開け、その穴へノミをつっこんでハンマーで割る、という大がかりなものだった。うー、辛かったよお。
 でも、もう1本、残っているんだよなあ、オヤシラズ。年内に残った1本も片づける。とほほ……

個性の正体(或失敗PART3)
  Date: 2000-11-08 (Wed)

 さて、前回までは純粋な演技の話だ。
 プロ俳優志望者には、ここにもうひとつ、商品としての「個性」が問題となる。そして、ほとんどの志望者にとっての苦悩が、このプロ俳優における個性だ。
 この個性を考える時、これまた大事なことは解析することだ。ほとんどの志望者は漠然としすぎているから、なかなか答が導き出されないのである。

 まず、生まれついての個性。これは身体の大小、顔のつくりなどの外見である。
 これをどうこうするのは難しい。が、俳優に美人もブスもない。美人だけでつくられる作品などないのだから。
 下手にメイクに凝ると画一的な美人風にしかならず、かえって個性をなくしてしまう。

 そして、訓練や鍛練することによって磨かれる個性。これは声質などの準外見的なものである。わかりやすく評価されるものではあるが、訓練によって手に入れることが可能だ。各自が修業に勤しんでほしい。

 さて、最終的な問題は、演技の個性である。

 みんなは円空仏というものを知っているだろうか?
 円空という遊行僧が、ナタ1本で彫り上げた仏像のことだ。今も5000体前後が現存している。
 同じ人が、同じ木から、同じ道具で、同じ仏像をつくったところで、いつも全く同じものができあがるとは限らない。円空仏ほど、このことをわからせてくれるものはない。

 演技における個性も、また、この円空仏と同じなのである。
 同じ俳優が、同じホンから、同じ解釈から、同じ役を演じたところで、いつも全く同じ演技になるとは限らない。
 どれだけ「役に生きる」ことを追求したところで、完全に同じ演技をそっくりそのまま繰り返すことなどは絶対に不可能なのである。
 同じ人間ですらそうなのだから、違う人間なら違う演技になることこそが、自然なのだ。
 これこそが演技における個性の本質である。

 では、個性のない演技というものから、個性を逆算してみよう。
 個性のない演技とは、予測がつく演技ということでもある。
 観客からすれば「次はこうくるだろうな」「こうなってしまうんだろうな」というのが、数秒前から見えてくるような演技だ。つまり、役としての反応が準備されているということでもある。
 この手の演技は、解釈を意識し始めたばかりの頃の俳優に多い。
 解釈に則り、
 「次の台詞を受けたら、怒らなくちゃ」
 「今度の台詞は、悲しまなくちゃ」
 ……と演技しているのである。
 はっきりと言ってしまおう。
 そんな演技は、役に生きているとはいえないのだ。プログラミング通りに動くロボットと変わらない。ロボット=非生物であり、生きてはいないのである。
 つまり、演技における個性とは、これまた「役に生きる」ことから始まるものでもあるのだ。

 以前、こういう質問を生徒から受けたことがある。
「解釈って、突き詰めれば、いくつかしか成立しないものなんですよね? じゃあ、出てくる演技も解釈の数までじゃないんですか?」
 違う、違う、全然違う。
 ひとつの解釈から、たったひとつの演技が生まれないなんてことはない。
 いわば、左脳が主として働く解釈においては正解に近付くべく、条件に照らし合わせて選択していく作業が求められる。
 その逆で、右脳が主として働く表現においては、作品に広がりを出すために増やしていく作業が求められるのだ。
 ひとつの解釈から、ひとつの表現しか生まれないなんてことはない。
 ひとつの解釈から、無数の表現を生むこと。その過程においてこそ、表れるのが個性というものなのである。
 意地悪な言い方で悪いが、広げないから、個性が生まれないのである。
 表現を広げられない頭のカタさが、個性を出せなくなっている最大の原因なのだ。

 つ個性とは、予測を裏切ることである。予測されてしまっているかぎり、個性ではない。
 よくされる質問に「どうやって殻を破ればいいんですか?」というのがある。これまた、同じ。ひとつの解釈から、どれだけの表現を生み出すか、というのを続けるしかないのだ。
 「もう出ない。もう絶対に出てこない」というところまで、とことん追い詰められた時にこそ出てくるのが個性であり、殻を破るということなのである。
 逆に「私って個性的でしょ」とばかりにやってくれる演技のどれもこれもが、臭くて臭くてどうしようもないのは、それがただの癖でしかないからだ。なぜなら、そういう奴の演技は、個性といいながらも、予測がつくからである。

 以前から何度も言っていることだが、個性のない人間なんて者は、この世にはいない。
 みんな、それぞれに個性がある。
 一番勘違いしてほしくないのは、癖と個性をごっちゃにしないこと。そして、自我がイコール個性とは思わないことである。
 同じ動きをしたところで、それまでに積み上げてきた訓練によって、速度は変わってくる。同じ人間であっても、その日の体調や、精神状態によって違ってくる。
 いつも同じ反応ができるわけなど、絶対にないのである。
 まして、違う人間同士であれば、その違いはもっと大きくなる。
 それこそが個性の正体なのだ。
 個性とは、漠然とした一個のモノではなく、自分の中の複合条件の中において発生した現象なのである。
 だから、個性をつくろう、なんて思っても、無駄なのだ。
 個性はつくるものではない。
 それぞれの人間の内にあるもの、それが個性なのである。
 個性とは、失敗に失敗を重ねた末に、自分の内から引っ張り出してこなければならないものなのだ。
 癖から生まれた個性は、俳優の可能性をかえって狭める。
 計算からつくった個性は、演技を不自然なものにしてしまう。
 演技における個性を求めるなら、自分を追い詰めるしかない。自分の思う自分からいかに離れ、役に生きようとした時、隠しても隠しきれずに滲んできてしまうものこそが個性として出てくるのだ。

 さて、ここまでで個性の本質論はオシマイである。だが、これだけでは、また、理想論といわれてしまうな。
 マスコミ仕事におけるプロ俳優は、ここで「俳優としてのキャラクタライゼーション=自分で自分を演ずる」が必要になる。
 まず、最初に「自分の思う自分」と「他人から見た自分」のギャップを冷静に理解すること。
 よくいるよね、自分では似合ってると想いながら、自分の体型や肌の色、雰囲気とはかけ離れたファッションやメイク、髪型をしている人って。
 まずは自分を客観的に知ること、ここが大事なのだ。
 その上で、欠点を隠し、長所を際立たせること。つまり、自分に最良のものを選ぶこと。
 これが「俳優としてのキャラクタライゼーション」の第一歩である。
 そして、次のステップこそが「自分で自分をパッケージングすること」。つまり、戦略として自分というキャラの方向性を決め、戦術として自分というキャラを具体的に仕上げていくこと。

 でもね…… 最終的には、これらの努力は、プロダクションの営業方針であり、マネージャー個人の趣味で簡単に吹き飛ばされる。
 言っちゃ悪いが、個性を口走る人間ぐらい、個性を論理的には考えてはいない。どんな言い訳にでもつかえる万能薬として、個性という言葉を用いて、志望者や養成所生徒を煙に巻いているだけだったりする。
 プロダクションの営業方針といったところで、実はそんなに真面目に考えられてはいなかったりするんだよね。
 マネージャー個人の趣味は、本当に個人的趣味のなにものでもないんだよね。思いつきを思い込んでいるだけの世界だよ。
 つまり、その事務所であり、そのマネージャーの、ケースバイケースでしかないのが現実なんだ。
 だからこそ、実力なんだよ。
 ドングリの背比べで云々いっていたところで、営業方針や趣味には太刀打ちできないんだよ。
 「こいつは即戦力になる」と思わせるぐらいの圧倒的な能力がないから、個性で煙に巻かれるドングリとして扱われるだけのこと。 「演技がうまい」といわせる要素をキチンと具体的に考えぬいてごらん。
 そして、本当に、自分は演技がうまいと思えるかな?
 基礎的な面において、ほころびがないと言い切れる?

 そして、なによりも、営業上手で声優の仕事をするようになっても、それは幸福なことなのかな?
 それをやっていったら、最後はどうなってしまうのかな?
 ニコニコお愛想をつかうところから始め、セコセコと御機嫌伺いを続け…… その果てはいったいどうなるのかな?
 いくつかの養成所や学校の中には、セクハラ講師やセクハラ事務員、セクハラ・マネージャーが存在していることもある。放送局や音響制作会社、アニメ制作会社にもね。これは事実だよ。実際にいるんだよ。さて、お愛想と御機嫌伺いの行着く先はどこ?
 そして、講師やマネージャー、音響マン、アニメ制作者の中には、実力のある新人や若手を引っ張り上げたい人もいる。これもまた、事実だよ。さて、この人たちに可愛がられるにはどうすればいい?
 なによりも、みんなは、どちらに可愛がられたいのかな?
 どちらに可愛がられるのが、幸福なのか、よーく考えてご覧。

 おっと…… 個性の話が、ずいぶんと違う方向にいっちゃったな。
 どういう道を歩むかは、自分次第。
 そして、私がこのホームページで相手にしているのはどんな人たちかは、自分で考えてよね。

右脳と左脳(或失敗PART2)
  Date: 2000-11-08 (Wed)

 人間の脳は、右脳と左脳にわかれ、その働きも違うといわれている。
 右脳は、情動や想像力などの精神的活動に関わるとされている。
 左脳は、計算や推理などの論理的思考に関わるとされている。
 演技そのものは右脳で行われる。
 しかし、解釈は左脳で行われる。
 明らかに矛盾しているし、二律背反でもある。
 かって、若かりし頃の私も、この矛盾に苦しんだ。

 芝居を始めたばかりの頃…… そう、演劇歴1〜3年ぐらいまでは、「勢い」の芝居が圧倒的である。
 発声にせよ、ミザンスにせよ、情感にせよ、マックス(最高値)でなければ、演技をしている実感というのはもてない。
 大声を出して、叫んで、ドタバタと動き回って汗をかき…… 初心者にとっては、これが演技である。
 だから、大掛かりな悲劇や、スラップスティックなコメディが楽しい。
 そして、受けることが、これまた、楽しい。観客の反応にベロベロに酔ってしまう。観客の笑いや拍手に我を忘れる。

 これらは悪いことではない。
 あくまでもステップであれば、だ。
 つまり、最初はともかく、いつまでも、これでは困る、ということである。

 私は、演劇初心者には、まず、2〜3分以内のエチュードから始めさせる。
 何度も何度もエチュードをやらせ、その中で舞台作法であり、情動というものを意識させる。
 私のエチュードは単純だ。
 ひとつのキーワードを与え、そのキーワードを「立てる」こと、制限時間は2〜3分とすること以外に制限はない。ジャンルも固定しない。コメディ、悲劇、日常…… なんでもかまわない。キャラクターも、老人だろうが、子どもだろうが、なんでもいい。設定も、現代だろうが、古代だろうが、未来だろうが、なんでもいい。
 本人がプランニングしたストーリー、設定、キャラクターを自由に演じればいい。
 そして、私が指導することは、本人が「やりたいこと」が、どうすれば、より観客にわかりやすくなるのか、という助言だけである。
 そうやって、人前で演技することに慣れさせ、演技することの楽しさを実感させるのが、私のやらせるエチュードである。
 私のエチュードに対する考えは、基礎中の基礎であるからこそ、誰にでもできなければならない。
 最初っからアレコレ求められてもできっこない。慣れるというレベルから始めなければしょうがないではないか、というのが私の考えである。

 私の教え方では、その先に解釈がある。
 ところが、この領域に至る志望者は少ない。それどころか、デビューしている新人や若手であっても、解釈力がないのもいるから頭を抱える。
 解釈は、演技表現を最終出力とした時の「式」に過ぎない。つまり、演技を引き出すための根拠というものだ。
 俳優における「ホンを読む」という行為は、読書とは違う。読書のように「あー、おもしろかった」では済まない。
 「絵姿」を想像しながら、ストーリーを理解すること、ドラマを理解すること、キャラクターを理解すること、そして、最終的にはテーマを理解すること。
 現実的には「解釈が大事」と口先では唱えながらも、「解釈とはなにか」を本当に理解している志望者は少ないのである。
 では、解釈を理解していない俳優が演技をするとどうなるか?
 ……暴走するのである。
 その場、その場のエモーションに振り回されるだけで、ストーリーを表現できない。ストーリーを表現できないから、ドラマも立たない。ドラマが立たないから、テーマも表現されない。キャラクターだって、思い込みからつくられているだけだから、その場での反応しかなく、結果として行動に一貫性のない“変人”にしかならない。
 すると、演出の言いなりになるしか、作品を仕上げられなくなるのである。

 さあ、ここで、また、考えなくてはいけない。
 解釈のない芝居は、ストーリーもドラマも、そして、キャラクターさえも表現できない。テーマなどもってのほかだ。ホンの意図を論理的に思考し、演技に根拠を持つこと…… つまり、解釈とは、完全なる左脳の作業である。
 では、役の気持ちになる、役に生きるということ、そして、役として反応することは? ……これらは右脳の作業である。
 この両立とは、いったい、なんなのか、ということだ。

 ここで大勢の志望者が悩む。悩んで、悩んで、悩み抜く。というよりも、ここで悩まない志望者に先はない。
 実は、答は簡単なのである。
 演技表現“前”と演技表現“中”において、つかう脳を切り替えればいいだけのことなのだ。
 つまり、演技表現前には、徹底的に左脳を働かせる。ホンに書いてある台詞の一言一句たりとも漏らさずに、全ての台詞に根拠をもつこと。それが左脳の仕事だ。
 この時、自分の役の台詞にだけ注目しているようではいけない。全ての役の台詞を解釈しなくてはいけないのである。
 そして、演技表現中においては、役に生きることを第一とする。自分ではなく、役として反応する。これが最も大事なことなのだ。役以外の部分…… つまり、自分で反応しているから、演技ではないのである。
 これらは二律背反の最たるものだ。

 「左脳と右脳を切り替えろ」といわれて、簡単に切り替えられるものなら、誰も苦労はしない。そう簡単に切り替えられない理由はなにか?
 それこそが自我であり、我執なのである。
 初心者の芝居は、自我のカタマリであり、我執の発露である。目立ちたい、認められたい、褒められたい…… という次元でしかない。
 そんな意識のままで「役に生きる」「役として反応する」ができるだろうか?
 解釈はいいのだが、役に生きられないという人がいる。これが前回、私が「とほほ」と思った生徒のことでもあるし、大勢の「それなりではあるんだけどねー」という善戦クンたちの正体だ。
 では、どうやって切り替えるか?
 これまた、順序立てればいいだけのことなのである。
 まず、リラックスすること。
 「芝居するぞー」「うまくやらなくちゃ」「失敗しないように」と肩肘をはらず、身体を、心をほぐす。この時に、いかに自我と我執から離れるかがカギとなる。
 そこからでなければ「集中=役に生きる」はできない。
 そして、実際の演技表現中には、意識の奥底に解釈があればいい。解釈を解釈として演じようとするから、役に生きられないのである。本物の解釈を掴むに至ったならば、自然に台詞がこぼれてくるものなのである。
 つまり、解釈が至る最高の領域とは、左脳の奥深く……無意識下で、右脳と共存することなのだ。
 役の気持ちから自然にこぼれてきた言葉、それが台詞なのであり、
 役の気持ちから自然に動いてしまう所作、それこそがミザンスなのだ。
 だからこそ、「役に生きる」の領域とは、俳優本人に演技をしているという実感は感じられない。
 そして、恐ろしいことに、この領域はコンスタントには突入できない。それはベテラン俳優であっても、だ。
 だから、俳優は一生が修業なのである。

 そして、個性の問題だが……
 「次回に続く」なのであった。

究極の選択
  Date: 2000-10-28 (Sat)

 究極の選択クイズ!
 A/プライベートはすっごくイヤな奴だが、仕事はちゃんとできる奴
 B/プライベートは素晴らしい人格者だが、仕事はゼーンゼンできない奴
 さて、仕事で組むなら、どっち?
 プライベートで付き合うなら、どっち?
 愚問だよね。大多数の人は、「仕事ではAと組む。プライベートではBと組む」と答えるだろう。
 が、しかし、そうはいかない人というのもいる。「仕事もプライベートもBと組む」と答える人ね。

 これ、社会人として、責任ある仕事をしたことがあるかどうかの差だ。
 社会人にとって、仕事ができない奴というのは犯罪的ですらある。手間がかかるだけで済めば、まだ、マシ。やらなくていいはずの余計な仕事を増やしてくれたりする。
 “1人”として勘定するのではなく、“マイナス1人”と数えたくなるほど仕事ができないなんてのもいるぐらいだ。本来なら1人でできる仕事なのだが、そいつがいると3人いなければ仕事が終わらない。つまり… 1-1=0 1+1-1=1 という状態だ。
 仕事の上でこういう目に一度でも遭ったならば、「プライベートはどうでもいいから、せめて仕事だけは一人前にやってくれえ!」というのがわかる。

 「仕事もプライベートもBと組む」と答える人は、学生に多い。
 学生にとっての仕事とは勉強だから、勉強の出来不出来よりも、プライベートの方が大事という考え方だ。
 で、困ったことに、養成所や声優学校でも、こういう風潮がある。いや、マジで困ったことなんだよ。
 確かに、芝居づくりというのはアンサンブルであり、コラボレーションである。一本の作品を仕上げるために、まとまらなくてはならない、協力しあわねばならない、力を合わせねばならない。このことに異論はない。
 ただし、そのアンサンブルであり、コラボレーションは、作品を仕上げることが目的なのを忘れてはいけない。
 まとまるというのは、多数決に従うことではない。協力するというのは、特定の誰かだけに負担が集中することではない。力を合わせるというのは、仲良くすることが前提ではないのだ。

 芝居が下手なこと、そのこと自体に罪はない。
 本人がプロになれない、プロとなるには時間がかかるだけのことなのだから、放っておけばいい。
 問題は、自分が下手なことを自覚せず、上手になるための修練を怠っていることだ。演技表現の上手下手に関わる諸要素であるところの発声・滑舌・解釈力・開放・集中力などに問題があるのを自覚できないのは、根本的な姿勢に問題があるという証明である。
 プロの世界では、そんな愚か者はキャスティングされない。その結果だけで判断すればいい。
 しかし、“養成”所であり声優“学校”となった瞬間から、愚かであったとしても作品づくりの中に組み込まれる。だから、愚か者でさえも、自分に発言権があり、裁量権があるなどという勘違いを起こす。

 違うんだよね、考え方が根本的に。
 声優に、プロやアマの区別はない。あくまでもプロ俳優のマスコミ仕事なのが、声優というものである。
 プロなのだよ、プロ。
 そして、あくまでも仕事なのだよ、仕事。
 いわば、養成所であり声優学校というのは、職業訓練校なのである。そして、俳優という職業にとっての仕事とは、演技にほかならない。
 職業訓練校において、自らの位置付けを誤り、仕事の本質を忘れてしまうようでは、本末転倒というものだ。
 ここらへんの認識が甘い奴が多いから、「仕事はできなくても、プライベートはいい奴」を許してしまい、自分自身の取り組み姿勢さえをも曖昧にしてしまう。
 だから、養成所や声優学校でやる舞台は、“発表のための発表”というトンチンカンなものとなる。そして、“稽古のための発表”となって、ただただガンクビ揃えて集まることを目的とし、懇親の延長線上のような取り組み姿勢になるのだ。
 “発表のための発表”で、どうするのよ? その時の自分が成し得る限りの良い舞台を提供しようという意志をもたない奴は、舞台に関わってはいけないのだ。たとえ、初心者であろうとも、観客あっての舞台という発想を、なぜ、もてないんだろうね。
 “稽古のための発表”ともなると、勘違いも甚だしい。稽古は発表のためにあるんだよ。発表する日に向かって、質の高い稽古をすることが大事なのである。
 なのに、自覚なき、努力を忘れた末のヘタクソが混じると、レベルも意識もドンドン下がっていく。それでいてアンサンブルだ、コラボレーションだ? アンサンブル演劇の成立すら理解していない奴がよく言うよね、ったく。

 百歩譲って、ヘタクソでもかまわないよ。
 下手なら下手なりに、役者としての自分自身の性能を向上させるのが大事なことなのだ。
 たとえ、身内相手の所内発表であろうが、舞台にヘタクソが上がるのは、それだけで罪なのである。せめて、罪を少しでも軽くしたいという気持ちが微塵でもあるなら、ちょっとでもいいから成長をしてほしい。成長のための努力をしてほしい。
 言い訳を考えたり、逃避する前に、自分に直面しよう。
 自分は下手なのだという自覚。その下手とは、なにに起因するのかという思考力。そして、弱点と欠点の解消のための努力につぐ努力。この過程こそが、成果ある成長というものである。
 決意と覚悟が生んだ成果と成長を、きちんとかたちにするのが舞台というものである。

 究極の選択クイズ第2問!
 A/プライベートはチャランポランだが、演技に対する取り組み姿勢はとっても熱心な奴
 B/プライベートはすっごくいい人だが、演技に対する取り組み姿勢がチャランポランな奴
 ……さて、君がプロ俳優のマスコミ仕事である声優の志望者として、いっしょに舞台をやりたい奴はどっち?

 この選択は間違えるなよ。
 人生が狂うぞ。

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☆56000アクセス突破! さんきゅ♪

或失敗
  Date: 2000-10-23 (Mon)

 世の中、やりたいことだけやっていて済むものではない。
 まずは、やるべきことをやってからでなくては、やりたいことはできないものだ。
 これは演技においても同様である。
 なにはともあれ、まずは、やるべきことをやらねばならない。

 たとえば、身体能力でいえば、「立つ・歩く・座る」といった人間の基本動作を可能とする能力、全身をつかっての発声を可能とする能力、舞台上で自由自在に活動するための能力などなど…… 高いレベルでの柔軟性・瞬発力・持久力・心肺機能を必要とするのが演技表現である。
 たとえば、たった一言の台詞を成立させるにも、山ほどある「やるべきこと」をクリアーせねばならない。戯曲におけるストーリー、ドラマツルギー、キャラクタライゼーション、テーマを一言一句たりとも漏らさず解釈し、論理的に整合するまでトコトン読み込む。
 その他、発声、滑舌といった基礎的な「やるべきこと」というのが、俳優には山積みとなっている。

 「演技とは説得の芸術である。俳優は自身が納得したものでなければ、観客を説得することはできない」
 ……20世紀を代表するシェイクスピア俳優サー・ローレンス・オリヴィエの言葉だ。
 この場合の納得とは、解釈における納得を指している。オリヴィエは「解釈に納得していない芝居をするな」「納得いくまで解釈しなさい」と戒めているのだ。
 が、しかし、時として俳優は、この納得の中身を勘違いする。納得のベクトルを解釈ではなく、表現に求めてしまうのだ。
 つまり、オリヴィエの名言を「自分が納得する表現」としてしまい、それこそがなによりも尊い、と。
 この甚だしい勘違いは、本格的に芝居をやりだして3〜5年で最もよく表れる。
 ただただガムシャラだった1年、2年を過ぎ、そこそこ基礎能力が上がり、そこそこ解釈できるようになり、そこそこソレっぽく芝居らしきものを表現できるようになる時期というやつである。
 恥ずかしながら、私にも覚えがある。

 私の時は、こうだった。
 まず、自分で構築した芝居を見せた。そして、それを演出に直された。何度も何度も駄目出しを受け、自分の芝居から引き離されたその瞬間、演出に「そう、それだよ」と言われたのである。
 まだ十代だった私は、半ば憮然とした。「こんなの納得いかないよ。演技の実感が全然わかねぇじゃねぇか」と。無論、言葉にはしなかったが、その思いは周囲に感じ取られたことだろう。
 あれから15年以上経った今、あの時の私と全く同じ間違いを、先日の安達ジムで見た瞬間、思わず噴き出しそうになってしまった。
 さて、若き日の私の失敗、そして、先日、安達ジムで見た同じ失敗。これはどういうことであろうか?
 答は単純である。作品を創るスタッフとしての「やるべきこと」よりも、自我から生まれた「やりたいこと」を優先させていただけのことなのだ。その結果として、表現が曇ってしまっていた。
 自我から生まれたに過ぎない「やりたいこと」を優先させてしまっていたために、表現のルーツである解釈が歪んでしまっていたのである。

 台詞が棒になってしまう原因の第一は発声能力であり、音感である。このふたつは純然たる技術に過ぎない。それなり以上の努力によって、ほとんどの棒台詞は解消される。
 が、中には、解消されない棒台詞というのもある。それは情動に問題がある場合だ。そして、この場合の「情動に問題がある」は、“治療”が極めて難しい。なぜなら、「精神の開放と集中」に問題があるからだ。
 先進的な演劇人であればるほどに、この「精神の開放と集中」にはうるさい。過激な意見の中には「満員の観客の前、舞台上で素っ裸になれるぐらいの自己開放」というやつを求める。中には、そういう精神開放がメソッドだと教える変態指導者もいたりして、素っ裸になればメソッドを体得したと思い込む変態俳優もいるんだから、困ったものである。素っ裸にさえなれば開放ができているというのであれば、ストリッパーは、皆、メソッド俳優ということになってしまうではないか。

 精神の開放、自己開放の正体とは、自我の自覚から始まり、演技表現においては自我を脱ぎ捨てることにある。
 精神開放、自己開放とは、自我からの開放に他ならない。これを私は「我執を捨てなさい」と常々いっている。
 人は「自分の思う自分」に制限されて生きている。自分で自分を規定し、その中で行動している限りの安定というやつに寄り掛かって日常を過ごしているものなのだ。その自分による自分の規定こそが、自我というものなのである。
 自我という存在自体はけっして悪いものではない。その自我が原因による問題さえ発生しなければ、それはそれで幸福な生き方ともいえよう。
 ただし、演技表現において、自我は致命的欠陥となる。自我を強く残したまま、どんな表現をしたところで、役がきちんと俳優の内面に息づかないからだ。
 演技における「精神の集中」とは、俳優個人の自我を引き剥がした中に、ホンから解釈した役を植え込み、役以外の反応をなくすということなのである。
 俳優個人の自我が残っている限り、本人は役として反応してるつもりでも、それは役としての反応ではなく、自我から生まれた俳優本人の反応に過ぎないのである。
 それでは演技の本質である「役に生きる」ことは到底不可能なのだ。
 若き日の私の失敗、そして、先日の安達ジムにおける生徒の失敗とは、自我を残しているからこそ生まれた失敗なのである。つまり、演技の実感がわかないという不満が生まれたこと自体、自我を強く残している証明ともいえよう。

 冒頭の言葉に戻る。
 純粋に演技を究めようとしたならば、演技に「やるべきこと」「やりたいこと」といった区別はない。俳優としての一生涯を「やるべきこと」のみに賭けても足りないほどである。
 まずは、このことを理解できる次元に到達してほしい。このことを、口先ではなく、全身全霊で理解することが、演劇人としての王道であり、正道というものである。
 その上で、なお、「やりたいこと」を求めるしたたかさを持ち合わせているのが、プロ俳優というものなのである。そのしたたかさが生むものこそが、個性なのだ。
 されど、王道であり正道を理解せずして、したたかさであり個性を追求してはならない。ハッキリ明言しておく。それは破滅の道だ。まあ、ろくなレベルには到達できない。

 この二律背反をギリギリの線で生きていくことこそが、プロフェッショナルとアマチュアの違いだということを忘れないでもらいたい。

15年ぶりの再会
  Date: 2000-10-17 (Tue)

 15年ぶりに懐かしい人に会ってきた。
 その名は守輪咲良さん。ニューヨークのアクターズ・ステューディオにて、リー・ストラスバーグに師事した、日本における数少ない正統派メソッド指導者だ。
 ちなみに15年前は、生徒だったんだよ、私。あはは。
 当時、サクラさんはアメリカから帰国したばかりで、ひょんな縁からメソッドを指導していただいた。その後、ひょんな縁とサクラさんの関係がイロイロあったので、私も疎遠となっていたのである。
 が、ここ数年、開放や集中の訓練を希望する生徒を「サクラさんところに行け。日本で、メソッドを実用的に教えられる指導者はサクラさん以外にいない」と次々送り込んでいるうち、私の存在がついにバレてしまって、お誘いをいただいたというわけ。

 それにしても、変わらないよね、サクラさんってば。
 その昔は、しょっちゅうトレーニング・ウェア姿だったんだけど…… ショートカットの髪型も、優しい性格も昔のまんまだった。そう。ホント、優しいんだよね、サクラさんってば。
 今、サクラさんところはシェイクスピア作『十二夜』で稽古をしているのだが…… 私は講義の途中から特製エモティオ・キャップを被って、他の人からは眼を見えないようにしていた。だって、眼光鋭い殺気モードに入っちゃったんだもん。
 サクラさんの演出は、私と同じ傾向のものだ。「ここはどういう意味?」と俳優に質問していき、俳優の解釈をより明確化させていく。そうやって、俳優の内にある「やるべきこと」「やりたいこと」を自覚させ、俳優個人の表現活動を尊重しようというものである。
 が、そのダメだしを受けている俳優たちのお行儀がね〜。あとでよくよく聞いてみたら、サクラさんところで初めて芝居をやったという人らしいんだけども。常識の範疇で考えて、ありゃ、指導を受けている人間の態度ではないんだよな。
 だいたい、わかってんのかねえ。サクラさんにタメグチをきいていた彼らは。日本でメソッド指導者を名乗る演劇人は多いが、守輪咲良のレベルに至っている人などゼロだということが。
 本場アメリカ以外で、サクラさんのレベルまでメソッドを修業した人はほとんどいないのだよ。しかも、メソッドの根幹である開放と集中を安全に指導できる人間といったら、サクラさん以外には皆無といっても過言ではないのになあ……
 優しいサクラさんは、なんとも思っていなかったようだが、かっての生徒であり、今は自身が指導者の私としては、かなりムカムカきていたのは事実である。価値がわからんというのは、ホント、恐ろしいことだ。崇めろとはいわんが、常識の範疇におけるお行儀ぐらい備えようね、ったく。
 ま、唯一の救いが、私が送り込んだ生徒たちは、礼儀作法の面でサクラさんに「しっかりした若い人たちだなあ」と思ってもらえていたということだけどさ。

 そんなこんなで15年ぶりの再会ということもあって、演劇界の裏側などもまじえて会話しつつ、酒杯を傾けたわけである。
(同席した名村は、感心したり、肝を冷やしたり、と大変だったろうなあ。この業界、狭いんだよん。うけけ)
 で、今後は演劇活動において、サクラさんとお互い助けあっていくことで話がまとまった。まず、私が、秋の桜塾のセミナーで解釈術の講義を行い、以後も助け合っていきましょうね、と。
 いやぁ、願ってもないことである。
 スタニスラフスキー・システムについては一家言どころではすまない私だが、こと、アクターズ・メソッドとなると、なかなか一筋縄ではいかないというのが本音である。
 メソッドも概論までは教えられるが、開放と集中の領域については、なまじサクラさんという偉大な指導者を知っているがゆえ、自分で指導するのは二の足を踏んでいたのが事実である。
 それが、当のサクラさんのご協力を仰げるというんだから、まるで夢みたいな話だ。って夢だったらどうしよう? つねってみるか。いてぇな、バカヤロー。夢じゃないや。ヤッホ〜♪

 それにしても、今年はイロイロあったなあ。
 エモティオの設立から始まり、バンタン声優科のプロデュース、君塚&植草を俳優フィットネスの世界に引きずりこみ、そして、ついには、あのサクラさんか……
 まあ、儲からない世界で、半ばボランティアのように一所懸命やっているんだから、これぐらいのラッキーがあっても許されるよなあ。
 まあ、予測できないほどに事態がでかくなりすぎたという感がなきにしもあらずなのだが……
 いつもの結論、がんばるしかないんだろうね。っちゅーか、がんばります。

守輪咲良さんのホームページ
http://www.hi-ho.ne.jp/sakura-no-tayori/

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☆50800アクセス突破! さんきゅ♪

☆先週の勝田基礎科はおもしろかったけれども疲れたにゃあ。30分前に入って、延長30分近くやってるんだもん。なんだかんだで3時間半の講義…… そりゃ疲れるよなあ。
 さて、次に勝田基礎科を講義するのは、11月2・3・4・5日。今回はバタバタしてしまって、外部の方の見学をキチンと了承とれなかったのですが(ごめん)、次回はちゃんと許可とろうと思います。詳細は後ほどnewsにて。よろしく♪

☆バンタン電脳情報学院・声優コースで1日体験授業(無料)を行います。興味のある方はフリーダイヤル0120-51-0505へ電話するか、またはnob@vantan.co.jpまでメールしてみてください。(定員に達していたらごめんね)

いっしょにやりたい?
  Date: 2000-10-11 (Wed)

 月曜日、エモティオの稽古を公開した。といっても、前々から予定していたものではない。なんとなーく、そーゆー流れになってしまっただけである。それでも20人近い見学者がいたんだけどね。
 今、エモティオでは、18期安達ジムと同じく『奇跡の人』をテキストにしている。だから、ジム・メンバーの一部については、エモティオの連中といっしょに読み合わせをさせてみた。

 てゅぐ生とコ゜〜(鼻濁音で読んでくれ)は…… 緊張し過ぎて玉砕。なんで、そんなに緊張するんだろうねー。思いっきりやればいいだけじゃん。ったく、度胸がねぇんだよなぁ、このオッサン2人組は。
 やっちゃんは、ほぼ互角。まあ、そりゃそうだよな。元々はコパの同期なんだから。俳協演研にいた実績はダテじゃない。でも、コパにいわせると緊張していたらしい。だから、なんでだってーの。
 キバラお嬢様も緊張しまくり。腹式呼吸をうまく使えず、苦しそうだったなあ。もっと伸び伸びとやればいいのに。
 アリリンは、凄かった。こいつ、まだ高校2年生なのに、集中力が高いんだよなー。これで発声がもっと良くなったら…… いやぁ、楽しみである。
 特筆は、デビルトモ! ヘレンの母であるケート役だったのだが、アニー役のマサヨとがっぷり四つに組んだ。声も伸びやかに出始めているし、滑舌は申し分無いし、いやはや大したもんである。
 終わってからユキンコをとっつかまえて「デビル、どうだった?」と聞いたら、「ひぃ〜! 追い付かれる〜」と泣きを入れていた。半分は冗談だが、半分はマジなんだよな、こいつの場合。
 特にデビルについては、去年末の『カム・ブロー・ユア・ホーン』での印象が残っていたから、エモティオの連中にも成長度がハッキリわかったのだろう。
 ナベやコパは「いっしょに芝居やりたいですねえ」と感心してたしね。

 役者にとって最高の褒め言葉とは「いっしょに舞台をやりたい」である。
 私は、今でも、白石文子ちゃんとの共演だったら、自分も役者に戻ってストレートプレイの芝居をやりたい。または文子ちゃんには、自分の書いたホンで源氏物語の六条をやってもらいたい。
 劇団ムーンライトの和田みちるも、いっしょに舞台をやりたくなるタイプだ。みちると動きまくるスラップスティック・コメディをやったら楽しいだろうなあ。
 ナベは…… そうだなあ、こいつが40歳を過ぎて、今より百倍は上手になったら、ナベのために、ひとり芝居の戯曲を書いてやりたいなあ。百倍うまくなったらね。
 コパには、あと10年後くらいに私の書いた戯曲を演出させたい。うーん、でも、10年じゃ無理かなあ。まだまだアブラっ気が多いからな、コパも。
 リョーコとマサヨのふたり芝居ってのもおもしろそうだよな。ブラックなコメディでね。リョーコに思いっきり意地悪な役をやらせ、マサヨには地のままの天然ボケを…… 楽しいだろうなあ、きっと。
 シンタが40歳を過ぎたら、おしゃれな芝居ってのをやらせてみたい。冴えない中年男のロマンチックな失恋モノみたいなやつ。なにはともあれ、まずは滑舌を今の1万倍は良くなってもらわねば。
 ユキンコ、ヘロミ、カオリン、ハタケヤマには、子ども向けの朗読をやらせてみたい。でも、この4人だと子どもの中に埋没するなあ。
 ……と、まあ、夢想するのは、ひじょうに楽しいものなのである。
 しかし、この夢想を侮ってはいけない。真剣に願い続け、実現の為の努力を惜しまなければ、いつの日にか現実となる。

 芝居には、「やらなければならないこと」と「やりたいこと」のふたつがある。
 発声、滑舌、解釈…… これらは「やらなければいけないこと」である。どれひとつとして欠けてはならない。
 が、演劇とは、プレイである。俳優の中に「やりたい」という気持ちもなくてはいけない。
 そして、その「やりたい」という中には、「いっしょにやりたい」というのも含まれているのを忘れてはいけない。
 敬意を胸に抱いた上での「いっしょにやりたい」という言葉がなければ、俳優人生は哀しいものである。
 台詞を、受ける、かける。これは相手役あってのことだ。かけやすい、受けやすい、そう思わせるだけの能力がなければ、「いっしょにやりたい」と思ってはもらえない。
 そういった意味で、勝田卒業生であるエモティオの連中は、デビルトモの能力を認めたのである。

 しかし、もっと肝腎なこともある。
 「あいつとは、いっしょにやりたくない」と思われないようにすることである。
 台詞の受けかけといった、やりやすさ、やりにくさのレベルではなく、「芝居じゃねぇよ」ってのじゃ困る。
 また、日頃の素行も問題になる。役割分担から逃げ回って、オイシイところばっかり持っていくような奴とはやりたくないよな。

 みんな、「いっしょにやりたい」と思われるような、そんな役者になってよね。

省エネ
  Date: 2000-10-08 (Sun)

 バンタン電脳情報学院声優科では、ひとりエチュードを徹底的にやらせている。本科はもうすぐ戯曲に入るが、土曜クラスはしばらくひとりエチュードが続く。
 私のやらせるひとりエチュードは、生徒本人が99%つくるものだ。
 たとえば、今、やっているものは、
「目下の人間に説教をしている。相手の反論に対し、『勝手にしなさい』といって部屋を出る」
 これ以外の指示はない。状況、自分の演ずる役、相手、説教の内容などは、全て生徒が考える。
 そうやって生徒の「やりたい」気持ちを育て、演出の視点で「やらねばならない」ことを教えていく。
 少人数だからこそできる、なんともノンビリしたやり方といえよう。

 さて、今回の課題では、色々な設定が出てきた。
 友だちと旅行に行きたいとせがむ中学生の娘を叱る父親役。
 バイトもせず小遣いばかりせがむ高校生の弟を叱る兄役。
 娘に自分の考えを押し付けて叱る“おためごかし”の母親役……

 偶然、似た傾向のエチュードを組み立てた2人の生徒がいた。
 ひとりは、望まぬ妊娠を、安易に堕胎で解決しようとする後輩を叱る先輩役。
 もうひとりは、その場の勢いでエッチしてしまった友人を叱る世話焼きの役。
 どちらも、生徒本人の経験を元にしたものらしかった。
 芝居的な駄目出しをした後、私が「ま、いいんだけどね、そんな馬鹿は」とこぼした時、『勢いでエッチ』のエチュードをやった高校3年生の生徒が「えーっ! いいことなんですか?」と言ってきた。
 慌てて「いや、どうでもいいの『いい』だよ」と付け足した。
「もちろん、俺の生徒がそんなことやったら、叱るよ。いや、怒るな。『なに、考えてやがんだ』ってね。でも、その友だちって、俺にとっては顔も知らない赤の他人だもん。その人を、わざわざ叱ったり、怒ったりはしないってこと。どうでもいいんだよ」

 で、いい機会なので、叱る気持ちについて説明することにした。

 人は、私を短気だという。
 確かに、私はすぐにカッとなるし、ガオーッと怒鳴る。
 ただ、ほとんどの場合、100%本気で怒っているわけではないから、パッと発散してしまえばそれで済む。本人としては、6割ぐらいしか怒ってないつもりなのである。
 その6割であっても、普通の人たちの激怒か憤激に相当するとは、よくいわれる。だから、3割も怒っていない“警告”や“注意”程度のものであっても、「怒っている」とされるようだ。
 が、自分で言うのもなんだが、これでも、かなりおとなしくなったのである。我ながら丸くなったと思うのだ。「こんなんやってられるかー!」というちゃぶ台返しも滅多にしなくなったし、肉体言語の執行は極めて減ってきた。
 やっぱトシなんだよね。怒りのエネルギー、叱るエネルギーというものが、減っていってるのだ。

 いや、ホント、叱ったり、怒ったりするのって、疲れるのである。いや、手間がかかるというのが本音だ。
 相手がなにを考えているのか、相手はどんなつもりで言っているのか、このまま放っておくとどうなるのか、といったことを、相手のレベルにあわせて説明しなければならない。とにもかくにもエネルギーが必要となる行為なのである。
 すると、「言ってもしょうがない奴」になんか、言いたくなくなるんだよね。
「どうせ、こんな奴に、なにを言ったところでわかりゃしねぇんだ。放っておこ」といったものでね。
 このhpはオープンから1年半が経過しようとしているのだが、最初の頃にあった苦言というものが、最近はめっきり減っていることに気付いている人もいるだろう。
 これは、「どうせ、言ってもわかんねぇんだから」という諦めにすぎない。相手の為を思っての怒りであり叱責なのに、それがかえって、疎まれたり、憎まれたりする元となるのであれば、「やーめた」と。ただ、それだけなのである。

 相手のことを想っていなければ、叱ったり、怒ったりなんて面倒なことはできないんだよ。
 相手を大事に想えば想うほどに、叱り方もきつくなるものだし、怒りも大きくなる。
 これ、友だち関係にだって、恋人関係にだって、同じことが言える。
 どうでもいい奴が、どうでもいいことをしていたって、そんなこと、どうでもいいだけなのだ。放っておくだけだ。
 どうでもよくない相手にだからこそ、“気持ち”というものが入る。
 本当に理解してほしいと思っている事柄だからこそ、“熱”が入ってしまう。
 だからこそ、しょっちゅう叱っている奴のことは、いつも、気にかけてしまうものなのである。なにかにつけて、「あいつ、どうしてやがるのかな」と。いつだって、現在進行形なのである。
 逆に、叱るのをやめたその時点で、「もう、いいや」となる。そして、しばらくすると、「あー、そういう人もいたねえ。元気なのかねえ」と、“思い出の人”となるわけだ。

 大事な相手だからこそ、わかってくれると信じているからこそ、「叱る」という気持ちがわかる大人になってほしいなあ。
 無責任に放置することもできなければ、いちいち気になってしまうということをね。
 まあ、難しいんだけどね……

こころの病気
  Date: 2000-10-03 (Tue)

 俳優として成長する人間には、傾向というものがある。

 まず、自分が好きな人は、俳優には向かない。演じる=他人になる、という行為とは懸け離れたところにいるからだ。
 ここで、タレント志望なのか、俳優志望なのかは大きく分かれる。タレントとは、あくまでも有名人になりたいというスター願望でしかない。ゆえに練習を嫌う。自分が好きとは、すなわち、自分には価値があるという思いがある。今の自分で十分だと思っているから、練習をしても熱心ではないのである。
 また、自分を肯定できる人間は、我執が強い。自分=役であって、役づくりをしようという努力に欠ける。自分から離れて役づくりすることに意味を見いだせないばかりか、抵抗そのものが強い。。
 たとえば、演出としての私は「本当の自分はできないことであっても、舞台の上にいる役はできるんだ」という言い方をすることがある。
 格好悪かろうが、悪役だろうが、三枚目だろうが、役は役であって、役者本人ではない。
 ところが、自分が好きで、自分を肯定できる人間は、役と自分を分けて考えることができない。自分の延長線上でしか役をつくりたがらないのである。自分の価値を落とすと思われる汚れ役を嫌うし、そういった役に対しての研究心が日常からない。
 これでは、俳優としてバランス良く成長することは難しい。

 逆に、自分を嫌っている人間は、俳優として成長しやすい。
 自分を否定していればこそ、「変わりたい」という願望が強いからだ。
 自分を否定し、「変わりたい」「自分を変えたい」という欲求が強いからこそ、練習熱心でもある。
 また、自分を鍛えることについて、積極的でもある。過酷な練習には、自分が好きではできないものがある。自分を嫌いだからこそ、踏み込んでいける領域があるのだ。自分を嫌いな人間は、その領域に果敢に突入していけるのだ。
 自分の意志によって、自分自身をバラバラに分解し、新たなる自分をつくりあげていくこと。それが俳優修業の基本といっても過言ではない。
 そうして訓練を積み上げた上に、役を与えると、水を得た魚のように泳ぎ出す。我執がないから、戯曲に忠実に、作品成立のためのスタッフとして演技をできる。それが自分を否定している人間の強みだ。

 が、しかし、俳優に向いている「自分を嫌いな人間」にも、恐ろしい欠点がある。
 それは神経症や精神症といった「こころの病気」を患いやすいということだ。

 クリエイターの『こころの病気』は、よくあることでしかない。
 一般人が及びもつかぬレベルで、開放と集中を繰り返し続け、自分を身体的にも精神的にも傷め続け、本番を前にすればするほど高まるストレスと闘うのだ。しかも、それを作品ごとに何度も何度も向き合わねばならない。
 程度の軽重はあれ、ほとんどのクリエイターはなにかしらの『こころの病気』と隣り合わせで生きているのが日常といっても過言ではないのである。
 しかも、そのストレスは、俳優向きである「自分を嫌いな人間」には、特に強い。
 「自分を嫌いな人間」は、精神的にも身体的にも無理をしやすい。しかも、完全主義的傾向まであったりすると、普通では考えられないような予習・復習を繰り返す。
 その過程における不安感といったら、それはもう……

 かく言う私も、自分が嫌いな人間である。
 自分をカッコイイとも思わないし、賢いとか、人格的に優れているなどと思ったことは、ない。
 だからこそ、私は修業を続けられる。たとえ、一瞬であったとしても、止まることが怖くて怖くて仕方がない。絶えず新しい何かを求めて動き続け、挑戦する。
 そして、何かを得る。すると、「もっと! もっと!」とより貪欲に、より高みに登りたくなる。
 では、そんな毎日が続くとどうなるか?
 ある日、ガクンとエンジンが止まってしまうのである。いわば、オーバーヒート状態になってしまって、なにもかもがイヤになる。それは自分が嫌いだということの再確認から始まり、生そのものに対しての嫌悪にまでつながる。
 死にたくなるのではない。消えたくなるのだ。自分の存在だけでなく、自分という人間が生きていたという証拠の全てを消し、自分を知っている全ての人間の記憶からも消えたい。
 無論、そんなことは不可能だ。だから、無理をやめ、何日間か充電をする。とにもかくにも、心を休めることに努める。
 ちなみに復活は一瞬だ。なにかに怒りだせば、私は闘える。闘うために立ち上がれる。敵は自分自身である。
 私にとって、生きることは闘いであり、闘うことと創ることは同意義なのだ。

 そんな私だからこそ、私と同じく「自分を嫌いな人間」の、それも若い君たちに助言したいことがある。
 精神的に辛く苦しい状態が続き、不眠や異常発汗などの具体的症状が出たなら、迷わず精神科または神経科へ行きなさい。
 軽い症状のうちなら、今は副作用のない良い薬が沢山ある。
 また、保険衛生法によって、費用は5%の負担のみで済む(東京都は全額無料)。
 なによりも大事なことは、『こころの病気』とは、けっして恥ずかしいものではない、という正しい知識を持つことだ。
 人間には誰にでも、精神症や神経症となる素地がある。「私だけはダイジョーブ」などということはない。
 『こころの病気』となることを恐れ、ただただ症状を悪化させていく一方ではいけない。通院、そして治療が、一気に楽にしてくれるのだ。

 そして、もうひとつ、忘れてほしくないことがある。

 君が自分自身を嫌いであっても、
 君を好きな人がいるということである。
 君が自分を無価値と思っていても、
 君の価値を認めている人がいるということである。
 君になにかあったなら、
 哀しみにくれる人がいるということである。

 自分を嫌いな私が言うのもなんだが、自分を大事にしてほしい。

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☆なにかしてあげたくても、なにもしてあげられない自分の無力を思う時…… 辛いんだぞ。

歪んだ現実主義は無力
  Date: 2000-09-25 (Mon)

 たまーに、私の意見を理想論だという人間に会うことがある。
 たとえば、「この業界は人間関係がものを言いますよ」とか「講師や事務所の人間に気に入られないと」と。
 私は別に「人間関係など一切無用! この業界は実力のみだ!」「講師も事務所も関係ない!」などと言った覚えはないんだけれどもねえ。
 まあ、こういうことを言うのは、修業を始めて数年の志望者に多い。養成所なり学校に行って、業界のウラ事情がわかったと思い込んでいるような輩だ。
 人間関係は大事だよ、ウン。でも、それは常識的な行儀・礼儀を前提としたものであって、過剰なへりくだりやお世辞やゴマすりではない。
 認めてもらいたいのであれば、常識的な行儀・礼儀をクリアーした上で、「やれ!」と言われたことは完全にやってのけ、「やったほうがいいね」ということまでもやればいいだけのハナシ。

 たとえば、ある附属養成所のある有名声優の講師は、発表会に出席する時、専用の座布団、飲み物、軽食、いつもすっているタバコを生徒たちに用意させて、帰りには生徒たちからお土産とお車代までもらっているそうだが……
 これが「業界の常識」だなんて思われちゃ困るんだよね。その講師だけの特殊例でしかない。その講師はそういった待遇を望んでいるだけであって、全ての講師がそれを望んでいるわけじゃないよ。
 私なんか、そんなことやられた日にゃ、居心地悪くてしょうがないね。だって、志望者は、みんな、貧乏だって知ってるもの。特に、真剣な志望者であればあるほどにね。
 だから、私は、ジムや選抜チームでは合宿をやらない。合宿の代わりに、朝9時から夜9時までの12時間ぶっ続け練習会をやってる。だって、合宿って、直接の費用以外にも金銭的損失が大きいもん。
 参加費15000円の1泊2日の合宿といったら、実質30000円ぐらいの金銭的損失になるんだよね。だって、2日間もバイトができなくなっちゃうんだからさ。3万円あったら、何日暮らせる? 1日3000円として10日間は暮らせるでしょ?
 でも、12時間ぶっ続け練習会だったら、1人頭費用は3000円にも満たない。バイトも1日休めばいいだけだから、1万円程度の金銭的損失にしかならないんだよね。
 それに、1泊2日の懇親込みの合宿では、本当の稽古なんて12時間もないはずだよ。合宿やるってんなら、最低でも3泊4日はやるべきだよ。じゃなければ、寝食共にして丸々1日を稽古に使えるチャンスをきちんと使えやしないよ。
 だから、私は合宿をバンタンでしかやらないんだ。正規授業の中に繰り込むというかたちで、懇親なんかイラナイということでね。

 じゃあ、私の言っていることに理想は含まれていないか、というと、そんなことはない。しっかりと理想は含まれている。それは承知しているよ。
 だけど、私は、理想を持っていない思想や行動というのは嫌いなんだよね。
 なんでもかんでも、現実、現実というなら、クリエイターなんてやる奴は馬鹿だよ。儲かる、儲からないでいえば、俳優なんて全然儲からない。
 儲かっている=同世代サラリーマンよりはるかに高い収入を得ている俳優なんて、プロ俳優のうち、1%にも満たないよ。生涯賃金でいったら、0.1%といったところだろうね。
 プロ俳優として、声優仕事で食っていけるのは、全志望者のうち、0.01%。その中の1%しか儲からないとすれば、志望者100万人のうち1人しかいない。3億円宝くじの方が、よっぽど高い確率で当たるってことだ。
 つまり、プロ俳優にはなれなくて当たり前であり、儲けられる俳優になるのは奇跡的な確率ということ。
 現実を云々というなら、まずはこっちに目を向けるべきだと私は思うよ。
 じゃあ、その現実を覆すことができるのは?
 理想ってやつを胸の中に秘め続け、それを原動力として、行動し続ける奴だけだと私は考えるんだ。

 「1日2時間の稽古は維持・調整まで。1日3時間の稽古から成長のためのものとなる」
 これって、そんなに難しいことかね?
 ちょうど、今、南半球ではシドニー・オリンピックが行われている。じゃあ、オリンピックに出場する選手って、1日何時間の練習をしているのかな?
 あるアマレス選手の場合は、1日8時間だっていうんだよね。そのうち、3時間は基礎訓練だってさ。
 オリンピック選手は特別だっていうかもしれない。じゃあ、日本でアマレス代表でオリンピックに出場できるのは、何万分の1の確率なんだろうね? 私は日本のアマレス人口が10万人と聞いたことはないんだけれども?
 そう、プロ俳優として声優仕事で食っていこうというんなら、オリンピック出場選手並の気概を持っていなくちゃならんということなんだよ。その時、「現実、現実」とだけ唱えていて、いったい、なにがどうなるんだろうね?
 現実的に考えたら、オリンピックに出場できると考える方が異常なんだよ。
 オリンピック出場選手クラスになると、遺伝レベルにおける身体能力も問題になる。それでも、他ならぬ本人の意志力が大事なんだよ。
 その意志力に、理想と夢はひとかけらもないのかな?
 無理、無理。理想も夢も持ち合わせていない奴が、人並みはずれたことをやるなんてのは。
 熱い理想と夢を胸の内にたぎらせている奴でなければ、現実をひっくり返すことなんてできやしないんだよ。

 こういうことを言うと、もっとヒネた志望者ってのが、冷めた反応をするんだよね。
「でも、今は、わけのわからんアイドル声優だのが跳梁跋扈しているじゃないか。努力をしたって、報われないんだ」
 はいはい。そのアイドル声優が何年もつっていうんでしょ? 前に書いたように、アイドル声優ブームなんて10年も経ていないんだよね。
 70年代のヤマト・ブーム、80年代のガンダム・ブーム…… そして、90年代のアニメ・バブルと、時代に合わせて声優ブームは3回あった。
 70年代の人気声優は、ほとんどが実力者だった。だから、今も多くがベテランとして残っている。
 80年代の人気声優は、実力のある人とない人が、ほぼ、半々だった。だから、今も中堅として残っている人はけっこう少ない。
 じゃあ、90年代はどうか? なにより、グウタラ志望者の“希望の星”であるヘタクソな新人が、この先、本当に残れると思っているのかな?
 見るなら、上を見ようよ、上を。
 下を見て、「それなら、ボクだって」なんてイビツな考え方はやめようよ。

 理想を、夢を、もっと正しく抱こう。
 歪んだ現実主義で、自分に言い訳するのはやめよう。
「1年の差は半年で、2年の差は1年で追いつける」
 これ、ホントだよ。
 勝田の中でいえば、今、滑舌ナンバー1は、間違いなく18期のアダトモだ。そして、アダトモのすぐ後ろを追い掛けているのは、これまた18期のアリリンだ。第1位も第2位も、最上級生である17期じゃないんだよね。
 アダトモとアリリンに、滑舌で勝負仕掛けて勝てる志望者なんて、まあ、ざらにいないだろうね。修業歴5年クラスであっても。
 これこそが、見つめるべき現実ってやつじゃないのかな?
 たとえば、夏の合同練習会では、バンタン生と同等の身体訓練を通せた他養成所生は、ほとんどいなかった。バンタン生と同等か、それ以上の身体能力を誇ったのは、勝田の安達ジム在籍者の一部、同じく勝田の選抜チーム在籍者、そして、主催者であるエモティオの連中ぐらいだけだった。
 バンタン生って、4月から芝居を始めたばかりだよ? あの時点では、半年も経過していないんだぜ。あと半年後にはどうなってるだろうね。バンタン生と肩を並べられる他養成所生を探す方が難しいだろうな。
 これこそが見つめるべき現実ってやつなんだよ。
 アダトモが、アリリンが、才能に恵まれているか? 冗談でしょ。同期なら知っているように、この2人は努力の人だよ。稽古ができないと半ベソかいて悔しがるような真面目さがあったからこそ、今のレベルがあるんだよ。
 バンタン生は、才能に恵まれているか? バカを言っちゃいけない。バンタン生の半数は、スタートラインにおいて勝田の入試を落とされるようなレベルだったんだ。君塚さんの指導になんとかついていこうとする意志の力があったからこそ、半年の短期間で、修業歴2年や3年の連中とわたり合える身体能力を持てるようになったんだよ。
 まあ、また、冬休みに合同練習会をやるだろうから、私の言っていることがウソやホラ、誇張かどうか、自分自身の目で確かめにくるんだね。
 歪んだ現実でどこまでやれるか、自分自身が試してみればいいじゃん。

 ちなみに、この度、アダトモには、エモティオの稽古に参加する権利というのを与えた。
 アダトモだったら、エモティオの中に入って稽古しても、足を引っ張らないもん。そういうレベルにまで達しているからというだけのこと。
 これが私なりの「認める」というやつです。

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☆10/12.13.14.15の勝田声優学院基礎科は私が講議します。講議内容の予定は、滑舌、エチュード。
 この4日間は勝田生なら見学自由。勝手に来てください。ただし、発声もちゃんとやるんだぞ、おめーら。
 他養成所生及び進学希望者の見学も事務局に交渉しようと思います。詳細はhp上にて続報をお待ち下さい。

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