3月4日に、バンタン電脳情報学院声優科の卒業公演を終えた。
会場は恵比寿のエコー劇場。一年坊主たちの卒業公演にはもったいないくらいの良い場所だ。
肝心の出来は、まあ、良かった。一年坊主のやった芝居としては。
お客様の評判も上場だった。一年坊主のやった芝居としては。
そう。あくまでも一年坊主としては、という注釈つきなのである。
確かに、あいつらはよく頑張った。
あいつらがどれだけ成長したかを知っているのは、他ならぬ講師である私たちだ。
入学半年過ぎるまで、なかなかエチュードをやりたがらなかったダイスケ。
本番当日の最終リハのギリギリまで私に駄目を出され続け、本番が一番いい出来だった。
エモーションがなかなか見えてこなかったサッサ。
「役の背骨」「意識の流れ」が見えてからは本番ギリギリまで成長し続けた。
ショーコは、勢いはあるが自分に甘い性格が災いして成長が遅かった。
本番数週間前まで三歩進んで二歩下がる状態だったが、集中が高まるにつれ、成長した。
自分の枠内でしか芝居をしようとしなかったネコ。
呼吸のコントロールから、役へ集中するようになってからは、ダイスケとのアンサンブルで成長した。
自分の過去の感情を掘り起こすことは得意だが、役としての感情を喚起することが苦手だったウサコ。
本番ギリギリまで私に駄目を出され続け、自分を捨てようという意識が高まるにつれ成長した。
完全に納得しないと何も出来ず、悩んでばかりいたナナコ。
本番当日の最終リハでは、かなり高い集中を掴み、自分では意識していなかった情動の昂ぶりに自分自身が驚いていた。
今だからこそ、あえて言おう。
彼ら彼女らは、本当に不器用で、かなりの劣等生だった。
君塚さんに「人間じゃない」と言われるほどに身体能力が低かった。
1年前の彼ら彼女らには、ダンスなんて夢のまた夢。立つこと・歩くこと・座ることから教わり、正しい腕立て伏せのフォームをやっていた。
なのに、すぐに発声ができるようになりたいと気ばかりを焦らせ、ヴォイストレーナーの田中先生を困らせていたりもした。
土井代表を始めとしたムーンライト幹部たちに滑舌を教わっているにも関わらず、自分たちの意識の低さからなかなか向上せず、私に大目玉を喰らっていたりもした。
そんな彼ら彼女らが、一年坊主としてはまともな舞台を仕立て上げられたのは、君塚さんについていってくれたからであり、田中先生のじっくりと腰をすえた指導であり、ムーンライト幹部たちの滑舌があったからこそだ。
そして、主任講師の私としては「一年坊主としては」で満足はしたくないし、させたくもないというのが本音である。
どんなに評判が良かったとしても、あくまでも一年坊主なのだ。
これから附属養成所に通う彼ら彼女らは、2年〜3年やってきた連中とガップリ四つに組んで、勝ち残らねばならない。
附属養成所に行ってからは、もう、「一年坊主だから」なんて目では見てはもらえない。
17期はもちろんのこと、16期より上の勝田卒業生とも張り合わねばならないし、また、勝たねばならない。
そんな彼ら彼女らに一番大事なことは、なにかあったら、基礎を振り返れ、ということだ。
自分のイメージする芝居がナカナカできない時。そんな時は、
「リラクゼーションはできているか?」
「ストーリー・ドラマ・キャラクタライゼーションといった解釈はきちんと通っているか?」
「自我から離れ、しっかりと役へ集中しているか?」
「発声に問題はないか?」
「滑舌は甘くなっていないか?」
「身体機能はフルに使えているか?」
といった基礎的なことを振り返ればいい。
元々、あいつらは不器用な劣等生だ。
しかし、今はただの不器用な劣等生では、ない。
講師陣から1年かけて叩き込まれた訓練の数々を思い出せば、いくらでも自主練習できるだけの能力を持っている。
本番当日、私は芝居では泣かなかった。
泣かされたのは彼ら彼女らの親たちに会った時だった。
満面の笑顔の親は、まだ、良かった。
顔面をぐしゃぐしゃにして泣き崩れた親が何人かいたのだ。
「うちの子が‥‥ うちの子が‥‥ 本当にありがとうございます」と。
これには、本当に胸を打たれてしまった。
不覚にも私まで貰い泣きしてしまい、まともな話ができなくなってしまった。
他ならぬ実の親が「変わった」と思ったのだ。
あいつらは本当に変わったのである。
これが紀元前から続く演劇というものの凄さだ。
バンタン電脳情報学院声優科卒業生たちよ。
いつも、胸を張れ。
胸を張っていられるだけの努力を続けろ。
胸を張れなくなった時は、自分にやましさがある時だ。
やましさがなければ、人はいつも、明るい笑顔で胸を張り続けられる。
いついかなる時も、胸を張っていられるような、そんな大人に、そんな演劇人になってほしい。
それが私の一番の願いである。
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☆とゆーわけで、私のカラダはボロボロです。背中から腰にかけてが痛くて痛くて仕方がない。いやはや、もう、中古のオンボロといった感じですな(苦笑)。
バンタン電脳情報学院声優科卒業公演の目処がやっと立ってきた。
本番は3月4日なのだが‥‥ いや、もう、タイヘンだったんだよね、これが。本番1ヶ月ちょっと前の2月初旬まで、シッチャカメッチャカだったのだ。なにしろ、芝居になっていない。覚えた台詞を口にするのが精一杯。観ていて楽しめるどころか、爆睡を誘うようなレベルだったのである。
正直言って「失敗したかな、こりゃ」と思っていた。「待つ演出」を心がけるよう努力している私でも、いいかげん癇癪を起こしかねないレベルだったのだ。
そんな状態を打破すべく、考えに考え抜いた挙句に到達したのは「個別撃破作戦」だった。
最初の標的はダディ役のサッサとカオル役のダイスケ。
とにもかくにも「心の動き」が見えないサッサを徹底的にマークしてNGを連発し、一言一句に至るまで解釈をチェックし、台詞がない時の「心の言葉」までをもチェックした。
情動を表出するのが苦手なダイスケに対して、全身の動きから情動を出せと、何度でもNGを出した。
サッサは一気に良くなった。最初がひどかったからね、サッサは。この2週間の急成長ぶりは、まるで1万年前の蓮が一気に咲いたような感じである。
ダイスケは苦しみながらも、ちょっとずつ変わってきている。毎回、なんらかの変化を見せてくれるようになってきた。
次の標的は、ネコとショーコ。
このふたりの問題点は集中。自分のリズムでしか芝居しないネコを説得し続け、ショーコの強い自我を指摘し続けた。
ネコは呼吸法からやり直した。意識の連続性の中で呼吸させていくうちに、自分でも何かつかみかけてきたようだ。
ショーコはとにかく叱られた。ショーコの甘い考えがはがれると共に、徐々にアキラへと近づいてきている。ただし、ショーコは本番直前の今ごろになって風邪をひいて、またも大目玉を食らっていたりもするのだが。
そして、今、最後の標的となっているのが、女主人役のナナコとミユキ役のウサコだ。
このふたりは、細かいところはいいのだが、大きなところで弱い。全般的には平均点以上なのだが、いざ、舞台ということになると表現が小さい。
ナナコは一番難しいところで踏ん張ってくれている。この調子でがんばってくれればいい。頭は良い子だから、自分自身が誰よりも納得できれば、ラストスパートまで良くなり続けるだろうと信じている。
ウサコは、全てを一からやり直している。立ち姿から始まり一瞬の反応の一つ一つに至るまで、身体レベルで染み付いている自分を徹底的に検証している最中だ。自分がひとつ剥がれ落ちる度に、一歩ずつ前進している。
舞台は主要登場人物のうち三分の一が変わると、全体が変わる。
サッサとダイスケが変わり始めてから全体が変わり始めてきた。ネコとショーコが変わると、全体はまるっきり違うものになってきた。
特に前半20分までのスピードは「これがお芝居1年生?」と言わせるに十分なものだ。
そして、おもしろいもので、本人たちの「芝居脳」というものまでが一気に成長した。先週ぐらいから「開放と集中」に関する質問が続出し始めたのである。
開放と集中‥‥‥
演劇をやっている人間であれば知っていて当然のことであり、リアリズム演劇の基礎であり極地である。
だが、この開放と集中を、知識ではなく意識できる人間はごくわずかだ。
100人の俳優志望者がいても、真に意識できるのは20人もいないのが現実である。
残りの80人は、開放や集中を聞きかじっただけで振り回していたり、または知識として振り回している程度でしかない。
まあ、お芝居1年生では、まず、理解できない。理解できていると思い込んでいるだけだ。
勝田全体を見回しても、開放と集中を正確に理解し、体感できているのは10人もいないだろう。
だが、バンタンの子たちは、演劇用語としての開放や集中といった言葉を使わず、自分自身の生の言葉で「開放と集中」に関する質問を出してきた。
これ、凄いことなんだよ、ホントに。
誰が驚いたって、1年かけて指導してきた私自身が一番驚いた。
思い返せば、私はバンタンでは「急がば回れ」をモットーにカリキュラムを組んだ。
3〜5分くらいのエチュードを約半年間かけ、100本はやらせてきた。
私としては、その間に演出のつかう「演出語」ともいうべきのアレコレであり、舞台における作法といったものをひとつひとつ教えていったつもりだ。
そして、舞台公演のための練習が始まり‥‥‥ 正直言って、「こりゃ参った」と思った。
エチュード百連発よりも、より実戦的な短い戯曲を5本ぐらいやらせた方が良かったかもしれないと、何度も後悔した。
しかし、それは私の早とちりだったようである。
なぜなら、短い戯曲の連発では「開放と集中」を意識できるレベルに達することは難しいからだ。
バンタンの子たちのおかげで、私は本道を見直すことができたといえよう。
彼ら彼女らの問いに、私は「観月法」「シー・ウォッチング」のふたつを指導することで答えた。開放の前にリラクゼーションがあるんだ、と。
それにしても、おもしろいもんだよね。
勝田生もそうだが、伸びる時というのは一瞬なのだ。
それまで伸び悩んで、なかなか上昇しなかったものが、何かの機会に一気に急上昇する。
まるで、長い長い滑走路みたいなものだ。
なかなか離陸しないで、滑走路をズーッと走っていただけなのが、フワッと上昇を始めた瞬間から、一気に高空に向かって飛び立っていく。
そして、その滑走路での加速がなかったら、なかなか飛び上がれずタイムオーバー=卒業となる。
滑走路で加速も出来ず、ただ、ヨタヨタと歩いているうちにタイムオーバーとなってしまった生徒を、私は今までに何人見てきたことだろう。
バンタンの子たちは間に合ってくれてよかったよ、ホントに。
なんとか目鼻もついてきたように思えるので、私は今、こんな文章を書けている。
さあ、本番まで、あと5日間。最後の追い込みが待っているぞ、と。
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☆バンタン声優科の卒業公演を観覧したいというメールを貰うんだけれど、残念ながらもうチケットはありません。約190枚のほとんどがはけてしまいました。ごめんなさい。(私の分もなかったりするんだよね)
今日も今日とて、バンタン電脳声優科は『タイフーン・カフェ』の稽古である。
おかげささんで私はメチャクチャに忙しい。1年坊主ばかりのバンタンには舞台監督に相当する人間がいないから、なんでもかんでも、私がチェックしなくてはならない。チラシのデザイン・チェックから印刷会社への発注。大道具のデザインと設計、部材の搬入から製作。音響もチェックしなくちゃならんし、照明の打ち合わせはまだやってないし、もう、てんてこ舞いである。
おかげさんで最近は、しょっちゅう頭が飽和状態に陥る。炭酸が頭を抜けていくように、脳天からシュワーと意識が抜けていってしまうのである。夜ともなると、炭酸が抜けたソーダのようになって、反応が愚鈍の域に達する。
全身タイツで「オーオーオッホオッホ!」とゴリラダンスをやれば許されるというのであれば、迷うことなくやってしまうであろう。(このネタがわかる奴は三十代)
しかし、稽古そのものは楽しい。稽古の合間合間に、さまざまな訓練メニューをはさんでいるからだ。
先日は、マスクをかぶらせ、無言でシーンをやらせてみた。
これは台詞ナシで全身で意味を通じさせるには、どれほどのミザンスが必要になるかを思い知らせるためである。
日本の俳優はおしなべてミザンスが苦手だ。そりゃそうである。日本人の日常会話には、身振り手振りが極めて少ない。日常から動きが少ないのに、舞台では無理して動こうとするから、無意味な動きを連発してしまう。
身体は「喋る」のである。
表情も視線も身体の内であり、舞台では一瞬の視線から指先1本の動きにいたるまで、全てが演技であり表現なのだ。
世の中には「声優になりたいのだから、舞台は関係ない」と思い込んでいる志望者がひじょうに多い。
とーんでもないっ! 声優の仕事にのみ限っても、舞台における全身表現は基礎中の基礎となる。
たとえば、アニメ・アフレコであっても、コンテマンや作画マンは、目線の動きや指先の動きでキャラクターの感情を表現することもある。声優は、そのカットに台詞がなかったとしても、アドリブで息遣いを入れることは珍しいことでもなんでもないのだ。
そして、声優自身が全身表現を理解していなかったら、絵における指先の「語り」なんてものを理解することはできないのである。
これが外画アテレコともなると、もっと複雑になる。一瞬のまばたきから始まり、小鼻の膨らみ、耳の紅潮、指先の震え‥‥ありとあらゆる外国人俳優の演技を理解した上で、声をのせていかなくてはならない。
「舞台なんか知りませーん」「全身演技なんてわかりませーん」なんてレベルでは、外画アテレコなんてものは絶対にできないのである。
日本のテレビ・タレントと、外国のテレビ俳優を同じレベルだと思ってはいけない。スタニスラフスキー・システムなんて基礎中の基礎、メソッドをバリバリにやって、日本でならダンサー面できるほどのタップダンスやジャズダンスの技術は「たしなみ」程度のものでしかない訓練を積み重ねているのが、外国のテレビ俳優なのである。ましてや、映画俳優ともなれば、テレビ俳優を遥かに凌駕するだけの実力派揃いだ。それだけの演技者を吹き替えるのだから、声優にもそれなり以上のレベルというものが求められるのが、外画アテレコの世界なのである。
話を戻すが、なんと、ミザンスが苦手な俳優志望者の多いことか。
「ミザンスは演出が考えてくれるもの。俳優は演出に言われたとおり動いていればいい」と思い込んでいる者までいる。
これじゃ、自律型プログラムを備えているAIBOよりもレベルが低いね。シンバルをシャンシャン叩き、歯をむき出して「キーキー!」と唸るサルのおもちゃレベルである。
全ての台詞に意思と意志があるがごとく、全てのミザンスにも意思と意志があるのだ。
役者から提案をしない限りは、台詞ひとつミザンスひとつとっても、演技とは呼べないのである。演出からの注文を待っているようでは、役者とは呼べないのだ。
立ち姿、呼吸、眼球の動き‥‥どれひとつとっても、役に生きた上に誕生する演技表現なのである。
ってなわけで、今日は、パントマイムの初歩中の初歩を稽古の最後にはさみこんでみた。マイムなんていったら、マイミストに叱られてしまうようなレベルではあるが、マイムにおける姿勢制御・重心移動の基礎と、「壁マイム」をちょっぴりだが教えてみたのである。
その時、おもしろいことが起きた。姿勢制御の最中に、いっしょにいたスポーツ・コーチの植草さんが「ああ、それってクラシック・バレエの基本だよ。ダンス・レッスンで教えてるはずだけど、なんで、できないの?」と。植草さんは苦笑、生徒たち真っ青、私は大爆笑。これだから、演劇っておもしろいんだよね。ありとあらゆる表現が勉強になり、演技へと応用できる。
帰り道、電車の中でウサコと話した。
「俺はね、みんなが全てのレッスンを、そして、日常のどんな些細なことであっても、演技の糧にできるような、そんな柔軟性のある俳優になってほしいんだよ」と。
日常生活の全てから始まり、ありとあらゆるレッスンを演技表現の糧にすること。それができたなら、俳優修行はより楽しいものになるんだけどなあ。
しかし、それにしても、こんな調子で本番は大丈夫なのだろうか?
なんとかしてしまうのが、演出の技量でもあるんだけどね。
ってなわけで、誕生日は合宿、バレンタイン・デーまで稽古だったという不幸な演出の毎日は、まだまだ続くのであった。
先日、よりによって合宿期間中に誕生日を迎えてしまった。
三十路も半ばともなると誕生日に感慨などなくなるのだが、それにしても、合宿ってのはないよなあ。
パーティーしたいとまでは思わないが、青年の家の質素なゴハンにアルコール抜きはさすがに淋しかった。
「最近、肩こりはどうですか?」と聞かれる。雑記帳で「肩こった」と騒がなくなったからかな?
ご安心を。ちゃーんと肩こりバリバリです。1週間に一度は肩こりからくる頭痛にも悩まされています。
童顔のため、服装によっては、まだ二十代半ばで通る私だが、いたるところに老化現象は現れてきている。
たとえば、「あー、アレだよ、アレ」。
出てこないんだよなあ、単語がすぐに。
いやだなあ、このまんま、言語不明瞭オヤヂになるのは。「アレをナニしといて」とかさあ。
もっとわかりやすい老化といえば、若いアイドルの顔がゼーンブ同じに見えてしまうこと。
正直に言います。私はモーニング娘。をゴトーマキしかわかりません。
もー、なにがなんだか、わからないんだよ。どのコもゼーンブ同じにしか見えない。
プッチモニがデビューしたばかりの時なんて、「はぁ? プッチーニ? オペラでも唄うアイドルか?」と本気で思ってしまったほどだ。
ゴトーマキだって、妹君や生徒たちの暖かいご指導ご鞭撻がなければ、今でもわからなかっただろう。
その昔、親たちがピンクレディーやキャンディーズがわからないなどと言っていると、
「これだからオヂオヴァは」などと苦笑していたものだが、まさか、自分がそんなオヂオヴァになろうおいとは思いもよらなんだ。
生徒たちとカラオケに行こうものなら、もう散々である。
自慢じゃないが、私はカラオケがうまい。腹式呼吸バンバンつかって、共鳴を駆使して唄い倒す。
問題は‥‥ 私の唄う歌が古いということだ。
だって、私の生徒には、1980年代生まれがゴロゴロいるんだよ。
私が高校生の頃に流行っていた歌なんて知っているわけがない。
私にしてみれば最近の曲を唄っていると、「あ、それ、幼稚園の頃に流行ってましたー! ナッツカシー!」などとムジャキに言われてしまう。
しかも、最近の曲を仕入れないものだから、いつ行っても同じ曲ばかり唄ってしまうことになるという悪循環。
ヒトはこうしてオヂオヴァになっていくのだなあ。こりゃ1ヶ月に1曲のノルマで、新曲を覚えたほうがいいのだろうか。
また、時には「えー、ホントですかー」といわれてしまうことさえもある。
「俺が高校生の頃は、ビデオはベータとVHSの2種類あって‥‥」
「ホントですかー。デジタルビデオなら知ってるけどー」
しかも、私が最初に持っていたビデオは失われたベータなんだから、悲しみもひとしおである。
そういや、こないだ、このパターンでVHDのハナシをした時は笑えた。
「DVDプレイヤー欲しいなあ。でもなあ、ウチにはレーザーディスクもあるからなあ」
「へー、レーザーディスク持ってるんですか? 珍しいですね」
「珍しくないだろ、レーザーは。VHDならともかく」
「へ? VHD? なんですか、それ?」
「そうか、VHDを知らないのか。VHDってのは、レーザーディスクの対抗として生まれたビデオディスクでな。
そうだな、形状はB4サイズのフロッピーディスクみたいなもんだよ」
「び、B4? ウソでしょー!」
「ホントだ、バーロー! そのでっかいVHDをだな、ケースごとガシャコンと本体に挿入するんだよ」
「し、信じられませんよー」
「片面で1時間だから、2時間の映画だったら、ガシャコンを2回繰り返すんだ。
3時間だったら3回ガシャコン、4時間だったら4回ガシャコンするんだよ。
VHDカラオケなんてのもあってな、ホステスさんが1曲ごとにガシャコンを繰り返していたもんだ。
15年前、登場したばかりの頃のVHDは次世代メディアなんていわれていたんだよな。
あの頃としては驚異的な数百メガバイトの記憶容量があったからね。
3年もたたないうちにレーザーディスクがデジタル音声を武器に圧倒的勝利を収め、
その後、VHDの技術はMOに発展したんじゃなかったかな?」
「へー。ところでレーザーディスクはどうするんですか?」
はうっ! そうなんだよなあ、レーザーディスクもなあ、処分できないんだよなあ。
貯金はたいて買った『傷だらけの天使』全話ボックスとか、秘蔵の『新日本プロレス25年史』とか『初代タイガーマスク伝説』とかのボックスがなあ。
デジタル時代になって、ハードや規格がドンドン進化していくから、オヂサンには辛い時代なのである。
どこまでついていけるんだろうねえ。
はぁ‥‥ずずず‥‥(渋茶をすする音)。
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今、勝田声優学院選抜チームYoung! Young!とバンタン電能情報学院声優科では、同じ台本『タイフーン・カフェ』をつかって練習している。『タイフーン』の作者は、ガイスターズでもごいっしょしている井上さん。Young! Young!の発表は1月24日、バンタンの発表は3月4日だ。
が、生徒たちに台本を渡したのは、ほぼ同じ。Young! Young!は実質3ヶ月弱で、バンタンは4ヶ月で仕上げる。最初は夏休み明けに完成予定だったのだが、大幅に遅れて11月に完成した。井上さんが〆切り破りしたわけでもなければ、遅筆だったわけでもない。演出である私が書き直しを5回命じたのである。
まあ、生徒たちにしてみると、かなり焦ったようなのだが‥‥‥
3年生と2年生混合のYoung! Young!と、1年生しかいないバンタン電脳声優科。1ヶ月のハンデでちょうどいいだろうと思っている。
時間がなくたって、Young! Young!の連中なら仕上げられなくてはいけないし、
1年坊主ばかりだとしても、バンタンの連中は仕上げられるようにならなくてはいけない。
ところがこの切迫した状況下、バンタン電脳声優科の意気がナカナカ上がらない。
先週の授業では、欠席だの体調不良で、芝居ができるコンディションにある生徒は計4人しかいなかった。『タイフーン』のキャストは計6人。こんなのじゃ稽古にならないと、急遽、Young! Young!の連中を呼び出したぐらいである。
そして、今週。先週のことがあったから、最初からちしゃ猫とウリボーを助っ人に呼んで準備しておいた。
1回目と2回目の通しでは、ウリボーが入った。最後の3回目の通しで、ウリボーとちしゃ猫の2人を入れてみたところ‥‥‥ 変わる、変わる。一気にバンタン生たちの芝居が変わった。
作品全体のテンポやリズムはもちろんのこと、各役の集中力、そして、情動がくっきりと浮かび上がってきた。
そして、ダメ出し。
「今日、やりやすかっただろ? 今まで気付かなかった気持ちがいっぱいあるってのがわかっただろ? それはなんでだと思う?
助っ人の2人が、“役の気持ち”を濃く強く大きく出してくれたからだよ。つまり、助っ人2人の提案によって、バンタンのみんなもノッていったんだ。
演技ってのは、役者からの“提案”なんだよ。お芝居ってのは提案の集合体として成り立つんだ。役者同士が演技を提案をしあうことによって、自分ひとりでは見えなかったキャラクターやストーリー、ドラマやテーマが見えてくるようになるんだよ。
これこそが真のコラボレーションであり、アンサンブル演劇というものなんだよ。
みんな、提案をしなくちゃ駄目だよ。その提案が大正解かどうかは、板の上に乗せてみなくちゃわからないんだ。演出ってのは、役者からの提案を審判するだけなの。役者の演技という提案がセーフか、アウトかの審判役が演出なんだよ。役者から提案がなかったら、作品なんか成立しないんだよ。
稽古の最中は、いくらでも失敗していいんだって。ってゆーか、稽古で失敗しておかないでどうすんのさ。本番で失敗したくなければ、稽古でありとあらゆる失敗をすればいいんだよ。初めての失敗は避けようがなくても、一度やってしまった失敗なら避けられるだろ? 演劇の数カ月にわたる稽古ってのは、失敗をしつくすためにあるんだ」
さてさて‥‥
Young! Young!の発表は、ついに明日。泣いても笑っても、今日の稽古限りで本番を迎える。あとは思いっきりやればいいだけ。
バンタン電脳声優科の連中は来週から、レクリエーションなんか一切ない4泊5日のガチンコ合宿だ。午前中はダンス漬け、午後に『タイフーン』3連チャン通し、夕食後に『タイフーン』2連チャン通し、合計5回通し×4日=20回通しをやってもらうぞ。たった4日間で20回通しは半端じゃないぞぉ〜! ガハハハハハハ!
今回、思ったこと。
やっぱ役者は舞台で育てなくちゃ駄目だね。
講師としても舞台でなければ教えられないことがあるし、役者にしても舞台でなければ実感できないことが山ほどある。
今回は、Young! Young!もバンタン生たちもスタニスラフスキー・システムにおける『輪の関係』がよくわかったことだろう。
ただ、わかったことと演技として実現することは違うのが、辛く、苦しく、そして愉快なんだけれどもね。ウワハハハハ!
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☆66200アクセス突破! さんきゅ♪
☆雑記帳復旧に多くの方の御協力をいただき、まことにありがとうございました。後ほど、改めて私の方からも感謝メールをお送りしたいと思います。重ね重ねもありがとうございました。
寒いと、わけもなく物悲しくなってくる。しかも、お腹が好いていると最悪だ。
「さむいなー、ハラへったなー‥‥死のうかなあ」とまでなる。
おおげさじゃないんだって。人間、寒さと飢えのダブルパンチを喰らうと、かなりこたえるものなんだよお。
『じゃりん子チエ』のおばあはんは「人間、寒い、ひもじい、もう死にたいとなりますんや。そういう時は、まず、腹ごしらえせなあきまへん」
という名言を残している。
というわけで、身も心も凍えてしまった夜の友、それはラーメンだ。蕎麦でもないし、牛丼でもない。ラーメンでなければいけないのだったら、いけないのである。
立ち食い蕎麦は午前中までに食べるものだ。午後のパワーを補うには物足りない。ただし、風邪気味の時は長ネギを大量摂取する手段として許される。
牛丼はオールマイティーすぎる。どこで、いつ食べてもダイジョーブな安心感がいけない。夜の食べ物には、うなぎパイのごときキケンな秘め事がなければいけないのである。(ちなみに私は吉野屋派なのだが、作曲家の川井さんは違う。一口に牛丼といっても、奥深き世界があるのだ)
さて、ここ数年、私が拠点とする池袋では、ラーメン屋が激戦を繰り広げている。
元々、池袋には超有名店・大勝軒がある。その他、20年前までは札幌ラーメンの長谷川も有名で(今はダメダメ)、リーズナブルな店としては福しんや一番館があった。地域的には、ラーメン偏差値50〜55ぐらいが池袋だったのである。
それがここ数年の開店ラッシュで、ラーメン偏差値が一気に10ぐらい上 がったのだ。
というわけで、安達が選定する池袋ラーメン・ランキングをいきなりやってしまおう。(ラーメン界のカール・ゴッチである大勝軒は考査にいれない)
第1位/えるびす
すきとおっていながら、こくのあるスープに、とろりチャーシュー。麺
もなかなか。味が不安定な時もあるが、これは化学調味料バリバリではな
い証拠だ。私のイチオシ池袋ラーメンである。たったひとつの欠点、それ
は店内禁煙(笑)。
第2位/東京とんこつラーメン・ふく屯
店の名前に自信がない。しっかりとしていながら、脂っこくないスー
プ。九州とんこつよりもさっぱりしている。並も大盛りも同じ値段という
心意気が嬉しい。近所の予備校生たちで店はいつも満員。隣がオトナのオ
モチャ屋なのは御愛嬌。
第3位/光麺
うまいことはうまいし、具もいいのだが、あれだけ並ぶようになっちゃ
ねぇ。寒空の下、立って並んでまで食べようとは思わない。こってりぎと
ぎとスープは賛否両論だろう。ここの天下無敵プリンと史上最強アンニン
豆腐が好き。
第4位/桂花
新宿の名店が池袋に進出。すっげー有名な店なので、詳しいことは書か
ない。好き嫌いが別れる九州とんこつなのだが、私は好きだな。大盛りや
替え玉がないので減点。
第5位/流星ラーメン
ここの“男塩ラーメン”が気にいってる。大盛りは気合いが入ってるぜ
いっ! 押忍! 西口のアブナイ場所にあるので、女性客はほとんどいな
い。この店を探しているうちに行方不明になった人は、10人はくだらない
のではなかろうか。それにしても、流星だの男だの、ネーミングが変わっ
た店である。
第6位/無敵屋
開店当初は空いていたのだが、今はすぐ近くにある光麺の余波で満員。
こってりぎとぎとスープ。具がド迫力。盛りもいいので、腹ごたえあり。
ちなみに、この無敵屋が開く前に同じ場所でやっていたラーメン屋は、海
の家なみに不味かったのを、私は生涯忘れないだろう。
第7位/梅太郎ラーメン
駅からやや外れたところにあるが、オーソドックスなスープと麺のバラ
ンスがグッド。こーゆーシンプルなラーメンをちゃんとつくることこそ
が、実はいちばん難しいのではないだろうか。全品、レベルが高いのだ
が、油を一切抜いたダイエットラーメンは涙が出るほどにまずい。
第8位/味源
北海道ラーメン系のチェーン店だが、チェーン店とは思えないほどにレ
ベルが高い。私には、ちょっと味が濃すぎるかな。ここの“でっかいどう
ラーメン”は、麺が3倍というツワモノ。旭川塩ラーメンが私のお気に入
り。
第9位/こむらさき
九州とんこつラーメン。かなりレベルが高いのだが、たまーにスープが
ぬるい。それで減点。しかし、10位のばんからと比べると、辛子高菜を別
料金にしていないところがよい。
第10位/ばんからラーメン
九州とんこつラーメンなのだが、こってり感が弱い。それなり以上の味
なのだが、替え玉が200円だの、辛子高菜が120円だのとセコいので順位を
下げた。
■張り出し大関/X(特に名を秘す)
この店には、私が幼稚園の頃から行っているのだが、恐ろしいほどにラ
ーメンがまずい。しかし、それを補ってあまりあるほど、餃子がうまい。
その他の料理も最悪で、野菜炒めなのにタマネギ炒めが出てくるような
店なのだが、それを補ってあまりあるほど餃子がうまい。
こんなにうまい餃子をつくれる舌なのに、ラーメンはどうして駄目なの
だろうか? 呪いか祟りのどちらかに違いあるまい。または親の遺言か。
寒い冬の日の夜、池袋にお立ち寄りの際は、ぜひ、探して食してみてください。
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日韓合作アニメ『GEISTERS』の放送が韓国で始まった。在韓サーバーのGEISTERSホームページには掲示板があり、放送以来、2000件を超す感想が書き込まれている。
で、その中には「なぜ、韓国のアニメなのに、日本人の名があるのか」「日本人の名が多く出ており失望した」といった意見がある。
その中でも、特に強烈なのは「シナリオは作品の脳なのに、なぜ、日本人に書かせるか」というものがある。
うーむ。私はあんまり日本人だの韓国人だの考えない方だから困っちまいましたぜい。
だって、私や井上さんの武器であるところのストーリー・アナリシスなんて、ハリウッドからの輸入品みたいなものなんだから。国境だの人種だのなんだの言っていたら、ユダヤの血を引くMr.バーニーに笑われちゃうよ。
私は基本的に、エンタテイメントに国境はないと思っている。
そりゃ、文化差異はある。
だけど、人間が怒り、笑い、泣き……といった根源的な情動について、 国境はない。
肌の色も、髪の毛の色も、瞳の色も、人間の情動の前には一切変わりはない。
我々日本人が失いつつある愛国心が、韓国の人々は旺盛なのだろう、とは思う。
それにしても、それにしてもなんだよねえ。ふぅ。
韓国製作サイドの見解であるところの「設定は全て韓国がつくった」「シリーズ構成も全て韓国がつくった」というのには、さすがに気が抜けてしまう。
ん〜。でも、いいんだ、いいんだ。だって、わかる人にはわかってるからね。
今回の韓国側の見解について、井上さんはそれなりに困っているようだ。うん…… そりゃ悲しいよなあ。
でも、私はけっこうタフというか、無神経だったりもするんだな。だって、こういう結果になるのは、可能性として考えていたからね。
それに全26話のシナリオを納品してある今となっては、事実上、過去の作品でもあるし。
普通なら、ここで「韓国とは二度と仕事しない」とか「合作はカンベンしてくれ」となるんだろうが、私はそんな風には思っていない。
「合作? いいっすよ。また、やりましょう。ただし! 今度は完全に同じ土俵に上がりましょうね。日本だろうが韓国だろうが、優秀なクリエイターは優秀だ。真剣勝負で最高におもしろい作品をいっしょにつくりあげましょうや」と。
『GEISTERS』って、韓国ではけっこう人気というか、話題になっているんだよね。
いつの日か韓国に行った時、「アンヨンハセヨー、GEISTERSのシリーズ構成やった安達でーす」と言ったら、熱烈歓迎してもらいたいしー(笑)。
それに、あと10年も経ったら、「GEISTERSを観てましたー!」って韓国の若いクリエイターに出会えるかもしれないじゃん。
私は、そんな未来のことの方が楽しみだぞ。
私が書いたシナリオに、なにかしらの影響を受けたり、心の奥底に感じるものがあって、自分もクリエイターになりたいと思うようになった若者と出会う方がいいじゃん!
その時はマッコリで乾杯して、骨付きカルビを貪り食うのである。
「食いねえ、食いねえ、焼き肉食いねえ! おう、ソウルっ子だってねえ。ガイスターズのどこが好きだい? 音楽? うん! 川井さんの音楽は素晴らしいよ! 美術も凄いよねえ。……ところで大切なこと、忘れちゃあいねぇかい? 肝心要のストーリーは?」
きれいごとに思われるかもしれないけれど、マジ、そう思っているよ。
クリエイターがきれいごとのひとつやふたつ、言い切れなくてどうすんのさ。
まぁ、そんなこんなで、私は韓国におけるガイスターズ騒動については、もう知らない。完全にノーコメント。誰に問われても見解なんざ述べません。
向こうには向こうの事情がある。
私の知らないところで、苦しんだり、辛い思いをしているスタッフが存在していることは間違いないのである。
芸術作品なら、利益度外視でなんでもできるけれども、商業作品には経済面の事情はもちろんのこと、時には政治的な問題だって含むこともあるんだから。
たとえ、こちらに言い分があろうとも、今、それを言ってしまったならば、向こう側のスタッフに不利益を与えてしまうこともあるかもしれない。
そんなこと、できるわけないじゃん。
たとえ、一度も会ってなくたって、国境を越えて『GEISTERS』を一緒につくった仲間である。仲間を売るようなマネ、できるわけがないっちゅーの。
誇り高き韓国スタッフだって、苦しんでいると思うよ。
私にとっての最大の問題は、日本だろうが韓国だろうが、放送された時におもしろいかどうかなんだから←ギュウ!(自分で自分の首を絞めた音)。
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年末に桜塾の2000年最後の講義と、その後のクリスマス・パーティーに参加させていただいた。
いやぁ、咲良さんという指導者は、やっぱり凄いよなぁ。とにもかくにも待つ。私も講師としては待つ方ではあるが、性根が短気の癇癪持ちだから、咲良さんほどは待てない。
咲良さんは「私はアクターズ・ステューディオでそういう育てられ方をしたから、このやり方しか知らないのよ」というが、いやはや大したことです。
私はどうしても現場レベルで物事を考えてしまうから、辛抱しきれずに「助け舟」を出してしまう。
たとえば、あの日、桜塾の生徒たちに出したかった「助け舟」はこうだ。
お芝居を始めて最初の数年は、「らしさ」でどうにかなるし、本人もそれでイイと思いこみがちだ。
乱暴者の役なら、乱暴者らしくやれればイイ……
召使いの役なら、召使いらしくやれればイイ……
お嬢様の役なら、お嬢様らしくやれればイイ……
これらはいわば『キャラクター芝居』というやつで、プロの演技では『カラオケ芝居』としてバカにされる。
純粋な演劇の勉強過程においては、キャラクター芝居は否定されねばならない。
しかし、作品を成立させるためには、キャラクター芝居もできなければならない。
そして、俳優として目指すべきキャラクター芝居とは、次のようなものである。
たとえば、台詞がほとんどない端役が、ストーリーの展開上、または台詞から解釈するに乱暴者だった場合、乱暴者というキャラクターを演ずる必要がある。
ここで演劇初心者がやりがちな失敗は、ただただ乱暴な言葉遣いをしたり、それらしい表情をつくるだけで乱暴者が表現できると思うことだ。
これは、コロッケがモノマネをする美川憲一をモノマネするようなものである。本人は美川憲一のつもりだろうが、コロッケのモノマネのモノマネと、美川憲一のモノマネは似て非なるものなのだ。
大事なことは、乱暴者が乱暴者と呼ばれる振る舞いをするのはなぜか、ということ。
乱暴者と呼ばれる人間のほとんどは、喧嘩が強い。喧嘩が弱ければ、わざわざ他人に喧嘩を吹っかけるような真似はするまい(喧嘩が弱いのに喧嘩を吹っかけてくる奴というのは、乱暴者ではなく、ただの嫌な奴というのである)。
普通の人間は、喧嘩になりそうな場面を避けるし、喧嘩にならないように振る舞う。つまり、喧嘩を怖がっているということだ。
が、喧嘩の強い人間は、喧嘩を怖がらない。喧嘩になりそうな場面では血沸き肉踊るような快感を覚えるし、時には喧嘩になるような振る舞いをわざわざしたりする。つまり、喧嘩が好きだからこその乱暴者なのだ。
たとえば、道を歩くにしても、普通の人間なら、他人と肩がぶつからないようにする。しかし、喧嘩が好きな乱暴者は、他人と肩がぶつかろうが気にしない。堂々と歩くだろう。肩が触れて文句を言われれば、これ幸いと喧嘩を買う。
これは会話も同じだ。乱暴者は、自分の力を誇示したい。誇示したいがゆえに、大声で恫喝するような調子になる。相手が気を悪くするんじゃないかという気遣いもない。気遣いがないから、口調が荒い。
これが乱暴者というキャラクターを演ずる時に大事な”心の拠り所”というものだ。俳優はこの心の拠り所から出発して、キャラクターを自分の内から育てあげればいい。
召し使いといった時、そこにどんな人格があるのだろうか。まずは、ここを考えねばならない。
召し使いになるべくして、召し使いになる人間はいない。その役の仕事としての召し使いであって、召し使いらしい性格や人格といったものは、ないのである。
召し使いが召し使いらしく見えるのは、召し使いという仕事の時だ。召し使いといえど人間なのだからプライベートもある。
ホンを読み込んでいる時には、召し使いという仕事ならば、召し使いとしてどんな反応があるかを想像してみる。召し使いだからこそ反応する瞬間と言葉と相手と思考があり、召使いであるからこその反応がある。
また、召し使いといえど、全ての人々の召し使いではあるまい。主人は誰なのか。主人の言葉と、主人以外の言葉では、重さが違うはずだ。
また、召し使いだからといって、主人に絶対忠誠ということはない。この主人だからこそ誓う忠誠もある。召し使いは主人のすぐそばにいるからこそ、主人の欠点や短所が見えているだろう。それらを全てわかった上で主人として認めているのか、それとも欠点や短所にはうんざりしているが、仕事の上では主人として認めているかなどの違いがあるのだ。
これらをホンの中から読み込み、演技として表現するからこそ、そのホンのその役になるのだ。けっして「いわゆる召し使い」などにはならない。
お嬢様を演ずるなら、ステロタイプ(画一的)なお嬢様像を演ずるのではなく、お嬢様特有の言動・行動がどこに起因するかを考え、どの台詞や行動がお嬢様というキャラクターを示すかを考える。
お嬢様=高慢ちきなら、なぜ高慢ちきなのかを考える。
お嬢様は、欲しいと思えばなんでも手に入る。我慢をしたことがない。誰かに強く諫められたこともないだろう。
つまり、我慢や忍耐といったものがなく、他人に意見されることに慣れていないから、お嬢様は高慢ちきなのだ。
では、お嬢様は高慢ちきなだけだろうか? 役によって違いはあるが、大事に純粋に育てられたがゆえの長所というものもあるだろう。
また、お嬢様だからこその表現というものもあるだろう。あまりある金をつかって、なんでもあげることを愛情と思うこともあるだろう。問題は、それが純粋かどうかということだ。たとえ、愛情表現が歪んでいたとしても、それが純粋な気持ちからなのか、それとも遊びかによって、ストーリーやドラマに与える影響は変わってくる。
ホンの中から多面的に長所と短所を捉え、演技表現の中で組み合わせていくことにより、そのホンのお嬢様というものが際立っていき、その役ならではのお嬢様になる。
これらは私が勝田の安達ジムやバンタンで口を酸っぱくして言っていることだ。まあ、そう簡単にクリアーできることではない。頭ではわかっているつもりになっても、演技表現として結実するには、ひじょうに時間がかかる。それこそ何度も何度も失敗しなければできないことだ。
幸い、桜塾は、私よりもはるかに人格が優れている咲良さんが指導されている。何度だって失敗してみればいい。失敗しなければ見えない領域というのがあるんだし、失敗を怖がっているうちは到達できない地点というものがあるのだ。咲良さんは何度だって失敗を許してくれるよ。咲良さんの元生徒である私が言うんだから間違いはない。
いやぁ、おもしろいよね。お芝居ってさ。桜塾のみなさん、21世紀もがんばってくれ!
仕事柄、私の周囲にはクリエイターが多いのだが、優れたクリエイターには共通したものがある。
それは“好奇心”だ。
たとえば、世間ではゲテモノとされるような料理を「一度は食べてみたいな」とか、どう考えてもミスマッチな素材の組み合わせであっても「もしかしたら、合うかもしれないよ」と挑戦する。
まあ、これぐらいは序の口だ。
たとえば、書店に行くと、わけのわからん専門誌を突然買ってきたりする。墓石や霊園の業界専門誌や、農業や種苗の業界専門誌を買ってきて読み、「へー、こういう業界もあるんだねえ」と感心していたりする。
自販機で変なジュースを見つけたら、つい小銭入れからお金を取り出そうとする。コンビニで新発売のお菓子を見つけたら、篭の中に入れずにはすまない。オモチャ屋の店頭で感心しきって、デモ中のオモチャをみつめる。
私は、これら好奇心の発露を「おもしろがれる能力」といっている。
私は俳優修業を、
第I期「わけもわからず駆け抜ける/暴走期」
第II期「辛く苦しい/混迷期」
第III期「わかった気になる/勘違い期」
第IV期「実力不足に気付く/やり直し期」
第V期「演劇と真正面から向き合う/繰り返し訓練期」
第VI期「演ずることを素直に喜ぶ/歓喜期」
第VII期「自分のペースを調整可能となる/安定期」
‥‥‥と7つの期にわけて考えている。
志望者のうち、第I期で10%が潰れ、第II期で15%が、第III期で20%が、第IV期で25%が潰れる。
まあ、養成所の中にいれば、簡単にわかることだ。最初は誰でも夢一杯だから、とにかくやればいいんだとばかりにやってくれる。最初の1年やそこいらは「器用さ=それっぽさ」でどうにかなるからね。
問題は第IV期に至れない連中である。「自分はできている」と思い込み、反省も自省も内省もなく、ただただしがみつく。サイアクなのは、他人を批判することによって、自分の地位を上げようとする愚か者である。
が、残念ながら、志望者のうち6割は、ここまでどまりなんだよね。
第IV期までで7割が消え去り、残り3割のほとんどが、第V期・第VI期までに消える。第VII期に至るのは、誤差のごとき数%のみだ。
第I期〜第V期までは、講師が教えられることである。ってゆーか、教えているはず。教えているのに、本人がやらないだけ、辛く苦しい現実から逃げているだけ。
俳優修業における最大のヤマ場はどこかといえば、第VI期/歓喜期なのだ。
ヒトという生物は、出生時点において、極めて未成熟な状態で生まれる。
たとえば、同じ哺乳類の牛や馬などは、生まれて数十分以内に歩行が可能となる。しかし、ヒトは生まれてから1年近くを経過しなければ歩行が不可能だ。
たとえば、犬や猫は生後1年で繁殖可能となる。しかし、ヒトは生後10年以上を経過しなければ繁殖が不可能だ。
ヒトという生物は、あえて未成熟なままに誕生し、幼児期を長く続ける。長い幼児期に、脳と神経を発達させ続ける。また、ヒトは思考と行動に幼児期の特徴を長く残しつづける。これをネオテニー(幼形成熟)という。
そして、このネオテニーが最も顕著に表れる精神活動こそが好奇心なのである。ヒトはネオテニーであるからこそ、脳と神経を発達させられ、万物の霊長たる知性・理性そして情動を会得できたのだ。
話を戻そう。
私は好奇心を「おもしろがる能力」と定義している。
普通の大人では馬鹿らしくてやれないようなこと、
くだらないと一笑に付してしまうようなこと、
非合理的すぎて遠ざけてしまうこと、
損得勘定して割が合わないといってやらないこと、
今さら恥ずかしくてできないようなことであっても、好奇心があれば、できる。
私が「凄いなあ」と思う俳優は、みな、どこかしら少年少女の面影をもっている。みな、「おもしろがる能力」に長けているのである。
これ、実際に養成所で勉強している志望者諸君は、自分の目の前にいる講師をジッと観察してみれば、すぐにでもわかる。
優秀な講師は、みな、表情に少年少女の面影を残している。瞳に、その時の気持ちがスッとあらわれる。実年齢60歳を超えているはずなのに、喜んでいる時は、まるで一〇代のような輝きが瞳に宿る。
それに比べ、実年齢が一〇代や二〇代前半である志望者の方が、表情が老け込んでいる。瞳に輝きがなく、笑顔が弱々しい。
Play is Play‥‥ 演ずることは、遊ぶこと。
遊びは真剣であればあるほどに楽しい。
夢中になれない遊びはつまらない。
遊べること。このことこそが、俳優修業最大のヤマ場である第6期/歓喜期に至るためには大事なのだ。
日々における小さな成長を、心から楽しめる「おもしろがる能力」こそが、演劇的ネオテニーとなるのだ。
教えてもらったことだけを金科玉条のごとく守り抜き、自分の世界=演出の世界からはみだすのを怖がる。まるで、忠犬のごとく演出にかしづく自分こそが正しいと、周囲まで同じ色に変えようとする。こんな調子では、演劇的ネオテニーに至るのは不可能だ。
大切なことは、艱難辛苦を喜びに変えられる力‥‥おもしろがる能力だ。
どんなに辛いことであっても、苦しみが全身を支配するような時であっても、それを乗り越えた末に手に入れられるであろう成果を夢見て、ニッコリと微笑む気持ち。
というわけで、21世紀どあたま、2001年の目標は「演劇的ネオテニー=おもしろがる能力を大事にしよう」。
辛い時、苦しい時こそが成長の時だと思って、辛苦をおもしろがれるように。
ま、そういうわけで今年も安達成彦ともども、当hpをよろしくお願いしますね。
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ついに12月も半ばを過ぎた。師走というやつである。ご多分に漏れず、私も走り回っている。儲からないのに走り回されるというのは空しいものである。
なにはともあれ‥‥‥
年末ともなると、ドコの養成所もせわしなくなる。
卒業年にあたる生徒たちは、プロダクションに残れるかどうかの瀬戸際で焦り出し、または次にどこの養成所に進学するかで慌て出す。
そして、年度末に向けて、公演発表があるところも多い。まあ、色んな笑い話を聞く。
養成所や声優学校における公演発表は、だいたい1本の戯曲を半年がかりぐらいでやる。すると、どこであっても、だいたい次のような問題が起きる。
「台本をもらって1ヶ月以上経過しているのに台詞を覚えていない奴」‥‥‥あるあるある〜度80%。
台本を覚えないで「真剣です」なんて、よくも言えるものだと思う。そういう奴が声優になりたい理由というのは「声優は、台本を手にできるから、物覚えが悪いボクでもできるかも」なのかねえ?
これにはホントーに困らされるんだよね。でも、ダイジョーブだよ。なぜなら、この手のタイプは年末に「冬休み中に絶対に台詞を覚えておけよ」と言われたのに、冬休み明けにも覚えられなくて、結局は来なくなって辞めちゃう確率が高いから。
「自主練習をすっぽかす奴」‥‥‥あるあるある〜度90%
みんなでスケジュール調整して、稽古場を借りて、自主練習日をつくったのに、遅刻したり休んだりして、自主練習をぶちこわす奴ってのも多い。
結局、人が足りなくなって、予定の幕や場ができなくなり変更したり、またはダラダラしたお話し合いをしてオワリとなる。女性がやる役を男がやったりして乗り切るケースもあるが‥‥‥ あんまり意味はないよな。
このケースは、本当に多い。まず、このケースを体験しない発表公演というのはないだろうというぐらいに。だから、みんな、「参加することに意義がある」状態になる。練習のために集まるのではなく、とにかく集まることしか考えなくなる。これで勉強になるわけないじゃん‥‥‥
「仕事をする人間としない人間にスッパリと分かれる」‥‥‥あるあるあ
る〜度100%
ほとんどの発表公演では、大道具・小道具・衣装・音響・証明のほとん
どを生徒たちがやる。
すると、チャンとやる人間と全く何もしない人間のふたつにスパッと分かれるんだよねえ。
やらない奴って、ナンダカンダと言い訳してとにかくやらないんだよね。で、仕事を押しつけたとしても、イイカゲンにやったりバックレたりするから、結局は「やる人」に全て押しつけられるんだよ。いや、もう、この無神経さといったら凄いもんだよ。
で、だいたい「やる人」というのはお芝居もソコソコなのだが、「やらない人」はお芝居もドヘタクソなんだよね。
そして、これからは、アッタマにくる現象が絶対に起きる。
1月を過ぎると、それまでしょっちゅう練習を休んだり遅刻していた奴であったり、それまでの制作をサボッてばかりいた奴が、急に「みんな、もう時間がないんだ、真面目にやろうぜ!」と意気込みはじめるのだ。
これがもう笑っちゃうぐらいの変化で、「をいをい、UFOにさらわれて、変な光線でもビビビッとやられたんじゃないのか?」と心配するぐらいである。
‥‥‥そして、これらの現象は、今も日本のどこかで必ず起きている(笑)。
で、私にいわせれば、こんなもんは全員参加を前提にしちゃうから起きる必然なんだよ。
全員参加は理想ではあると思う。でも、観客にも迷惑なら、参加者にも迷惑な理想なんだよね。
そもそも舞台というのは、ベストメンバーで行われるべきである。それは、たとえ、勉強のための研究発表であっても、だ。
ギリギリまで練習をし、最後にベストメンバーで本番として発表すればいいんだよ、ホントはね。
だって、生徒を平等に見ようとしたって、生徒の能力は均等じゃないし、生徒のやる気も均等じゃないんだから。
勉強を始めた時期はいっしょでも、その後は当人の努力なんだよね。1年も経てばその差は歴然とする。なのに、生徒ということだけで一括りにしてしまうから、悲喜劇が生まれるというわけだ。
だいたい、役者が役を取り合わないでどうするんだよ。競り合った上で手に入れた役だからこその「重み」というのがあるんだし、公演に対する責任感というのが生まれるものなんだがなあ。
まあ、こんなことを言っても、生徒である諸君にはしょうがないことか。可哀相だけど‥‥‥
アドバイスはひとつ。
「青春の思い出づくりに巻き込まれるな」
言っちゃ悪いが、養成所だの声優学校の中でやる舞台公演には限界がある。
舞台公演を通して勉強して欲しいことは山ほどあるが、そこに舞台をキライになって欲しいなどというものは微塵もない。
そもそも、舞台をキライになってしまうような発表公演など百害あって一利なし。
「これはカリキュラムの一環なんだ。ホンモノの舞台はもっと楽しいものなのだ」と思い直し、距離感をとって参加すればいい。
まずは台詞を完璧に覚え、可能な限り自主練習に参加し(生活が壊れないことが前提だよ)、自分ができる制作手伝いはやる。これ以上のことはやらなくてもいい。
距離感と冷静さをもてばいいだけのことだよ。お祭り気分に巻き込まれてしまっているから、バイトができなくなって生活が壊れたり、心労が重なってしまうのである。
もっと大事なことは、たとえ、公演発表のための稽古期間中であったとしても、基礎練習を欠かさないことである。
いるんだよねー。公演発表が終わってみると、基礎能力が一気に下がっているバカ。
そりゃ、身体訓練だの滑舌訓練だの発声練習をやっているよりは、お芝居をやっている方が勉強している実感はあるだろう。
でも、それじゃダメなんだよ。
たとえ、どんなに忙しくしていたって、基礎訓練だけはシッカリとやらなくちゃいけない。ここんところだけは勘違いしちゃダメだよ。
他ならぬ自分のためだからね。
ま。なにはともあれ、みんな、頑張ってね。
辛くて、苦しくて、しかもアホ臭い目に遭うこと確実の発表公演だけど、全く何の役にも経たないわけじゃないから。
そうそう。最後に、ある志望者が発表公演が終わってからの反省会での一言をここに再録してみよう。
「はぁ〜‥‥‥ もう勘弁してください。やっと終わったという気しかしません。以上」
これが正しい姿だよ(冷笑)。
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★オヤシラズ手術跡を抜糸。あの鬼のような頭痛が楽になりました。めでたし、めでたし。
★先日のエモティオ主催『解釈術基礎講座』に参加したみんな、ご苦労さん。勢いのお芝居だけでなく、アタマをつかったお芝居もできるようになってね。
日本には『家元』という制度がある。江戸中期頃に確立したというこの制度は、創始者の家系を頂点とする世襲制が基本だ。
茶道・華道・日本舞踊の家元・宗匠は免許皆伝・師範代・段位認証といった階級を認証する最高権力者となる。
演劇界でも、伝統芸能である能・狂言・歌舞伎などは家元制である。基本的には、親から子へと名跡が継がれていく。
家元制には、メリットもあればデメリットもある。
メリットは、伝統の継承だ。ヨーロッパの演劇は戯曲によって残っているが、日本の伝統芸能は家元制のおかげで演出そのものまで併せて残っている。また、幼少時から演劇を身近にして育っているから、芝居勘ともいうべきものが研ぎ澄まされる。
デメリットは、停滞だ。その家系に生まれない限り、家元(名跡)になれない理不尽さのため、新しい才能が育ちにくい。また、日本の伝統芸能の場合、「口だて」で伝わっていくため、戯曲として文字になっていないものも多く、新解釈や新演出がほぼ不可能に近い閉塞状況に陥っている。
もっとも、能・狂言・歌舞伎界の人間も、その点は重々承知で、文化庁の保護のもと、新しい才能を育成すべく頑張ってはいる。
海外では、家元に近い制度はない。中国・韓国では家系を大事にはするが、芸能における流派の代表者は別で、最も実力のある者が継承していく。
クラシック・バレエの世界ともなると、もっと過酷になる。海外の有名バレエ団の入団審査では、そのダンサーの実力のみならず、家系的身体資質までが選考基準になる。祖父母の代の身体データまで提出させられ、家系の中に肥満者があったら、即アウトだ。
さて、近代演劇の世界においては、家元も家系も関係はない。そもそも流派というものがあるわけでもない。
もし、流派に近いものがあるとしたならば、それは「どんな系統の演劇訓練を経てきたか?」ということだ。
日本における20世紀‥‥特に第二次世界大戦後においては、大きく3つにしか分かれない。
「スタニスラフスキー・システム」「シェイクスピア・スタイル」そして「アマチュアリズム」。
それぞれの是非は、ここでは言うまい。
問題は、スタニスラフスキーを標榜しながらも、スタニスラフスキーと反することを平気でやらかしている輩の存在である。
先日、相談を受けた「ミザンス完璧にして素直な芝居」という大矛盾演出にしてもそうだが、もはや演出以前の人間が講師として初心者に指導し、自分はスタ・シスだというのには、本当に頭が痛くなる。
なんで、こんなことになるのか、と調べれば調べるほどにわかること。
それは家元制を生み出すに至った日本人的感性だ。
日本は縦社会を重んじる。
演出は、作品制作の最高権力者である。これは間違いない。作品制作における全ての権力の集結先は演出とならねば、制作現場そのものの秩序が崩壊し、制作に支障が出てしまうが、だからといって、演出が言えば、黒いカラスが白くなるわけでもない。
ミザンスひとつとってみても、演劇的理由なく役者を立ったり座らせたり、立ち位置を移動させてはいけない。これ、スタ・シスの原則だよ。
でも、スタ・シスを標榜する50代以上の演出や講師には、キッカケ芝居・段取り芝居を好きな人が多いのである。
これ、私は昔から不思議でならなかったのだが、最近、やっとわかったことがあった。それは新劇時代の問題点なのである。
伝統芸能とは違う世界で始まったはずの新劇だったのだが、かっての新劇には演出至上主義が強かった。
スタニスラフスキー研究を始めたのは新劇の演出だったのだが、どうやら、そのきっかけは演出の理論武装という面も強かったようなのである。
役者を説得するためというよりも、役者に対して演出が絶対優位に立つための理論武装としてのスタニスラフスキー研究という面もあったらしい。
これは日本にスタニスラフスキー研究が根付くまでは良かったのだが、現実の歴史においては、演出至上主義の新劇が廃れるにつれて、スタニスラフスキーの評価まで併せて墜ちてしまった。
その後は、自分の師匠である演出がスタニスラフスキー研究の第一人者だから、自分もスタ・シス継承者であると思いこんでいる演出が新劇出身者には多いのだ。
いわば家元制でスタニスラフスキーを継承できると思っているようなもんだよね。これでは墓の下のスタニスラフスキーも浮かばれないよ、ったく‥‥‥
アクターズ・メソッド(メソッド演技)は、リー・ストラスバーグとエリア・カザンが、アメリカにおいてスタ・シスを発展させたところから始まる。つまり、アメリカにおいて進化したスタ・シスが、アクターズ・メソッドなのである。
日本だって、かってはスタニスラフスキー研究と実践が盛り上がった時期があったのだから、日本でスタ・シスが進化する可能性はあった。しかし、現実は、家元制のごとき演出至上主義が進化の可能性を潰してしまった。
その上、もっとも問題となるのは、演出至上主義の残滓ともいうべきレベルの演出が、俳優養成の現場でデカい顔をしていることだ。
さて、ここで諦めているだけではいかんのだ。
知った風な顔をして「しょうがないよ」とか、したり顔で「そんなものさ」といったところで、物事は何も進展しない。
前回も書いたが、世の中は移り変わり、そして、また繰り返す。
ただ、次の繰り返しにおいては、同じ間違いをしないようにさえ、すればいいのである。
なにはともあれ、21世紀には、演出至上主義の残滓どもの駆逐からでも始めるかね。幸い私のできること、私に任されること、私が動かせることは、数年前よりもはるかに増えているからさ。
お楽しみはこれからだ! ‥‥‥ってなもんだ。首を洗って待っていてもらおうじゃないか。
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★これから最後に残ったオヤシラズの抜歯に行ってきます‥‥‥ うぅぅ〜。たまらんなあ。
11月ぐらいから、各養成所の2001年度募集要項が配布されはじめている。
私のところには、進路相談にくる生徒たちがパンフレットを持ってきてくれる。華やかなものあり、シンプルなものあり、まあ、イロイロとある。
そして、私はある大手プロ附属養成所養成所をやっと手にした。
某プロ附属養成所は今まで2年制でやっていたのだが、予科を1年プラスするのだ。そして、その予科では、今の基礎科よりも発声や滑舌に重きを置く。
私はこの噂を夏ぐらいに聞いていたのだが‥‥‥ アイドル声優ブームのしっぽを追いかけているプロダクションがまだまだ多数の中、これは大英断である。
私は「よくやってくれた!」と思うと同時に、「やっぱりね」とほくそ笑んだ。
時代は繰り返す。この言葉を聞いたことがない人はいないだろう。
特に、流行や風潮というものは、何度も何度も繰り返される。
たとえば、声優ブームも今までに3度も繰り返されてきた。
第1次声優ブームは1960年代後半から1970年代にかけてだった。アテレコ声優を中心として、深夜ラジオからブレイクした。1970年代末から1980年代にかけての第2次声優ブームが、『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』『機動戦士ガンダム』でブレイク。そして、1980年代末から、今に続く第3次声優ブームだ。
第1次と第2次は、声優=俳優であった。特に第1次の頃は「声優=舞台俳優のアルバイト」であり、第2次の頃は中堅・ベテランの舞台俳優出身者を中心としたブームだった。
第2次以来、アニメ・ブームと声優ブームはイコールである。それでも第2次の頃までは、声優=俳優の実力を問われていた。
が、第3次は違った。アニメーションというコンテンツは商売になるとされ、声優そのものの商品価値が問われた。特にメディアミックスを企画している作品では、声優も当然のように顔を出す。そこから、声優と役がイコール・イメージにされ、アイドル声優が次々と出てきた。
アニメ・ブーム=声優ブームは、もうひとつの現象を生む。それは声優志望者の増加だ。これも第2次以来の傾向だろう。ただ、第2次=80年代の声優志望者と、第3次=90年代の声優志望者で、これまた大きな違いがある。
80年代の声優志望者は、声優=俳優という原点を理解していた。というよりも、養成所講師がそれを当たり前のこととして躾た。しかし、90年代の声優志望者は、声優=俳優を受け入れきれない者が多い。
それは目指す声優の違いといってもいい。80年代の声優志望者が目指していた声優は、当然のように舞台をやっていた。しかし、第3次になり、アイドル声優を見て業界を目指した声優志望者は、声優=俳優を受け入れられないのである。
(じゃあ、自分が、アイドルなり、タレントなりやれるだけのルックスとキャラクターをもっているかということを直視しないのが最大の問題点でもあるのだが‥‥‥)
無論、声優志望者だけではなく、計画性なく商売だけで養成所を始めたプロダクションにも、非はある。
アイドル声優ブーム絶頂の時には、俳優としての能力など度外視して、つい数ヶ月前に養成所の門を叩いたばかりのカワイコちゃんを現場に押し込んだりしたしね。
今や、ついに終焉を迎えつつある第3次声優ブームだが、そんな能力無視・ルックス重視状態が5年以上も続いたのだから、声優志望者に妙な考えが蔓延するのにも時間はかからなかった。
プロダクションの姿勢も問題だが、志望者全般の姿勢までおかしくなってしまったのである。
時代は繰り返す‥‥‥
この言葉の意味を、もう一度、考えてもらいたい。
過ぎたるは及ばざるが如し。
物事とはおもしろいもので、ある一定の圧力が力を持ちすぎると、反発する圧力も出てくる。アンチテーゼ、カウンター(対抗)というものだ。
特に、声優養成に関しては、私はこのhpを始める前から、このことをニフティサーブのパティオで繰り返してきた。
「必ず揺り戻しが来る。それも5年以内だ」と。
アイドル声優、声優のタレント化が進めば進むほどに、声優=俳優の力も、また増す。
声優として、プロダクションに所属して仕事をするだけの能力を持つには、どんなに短くても5年、普通は8年はかかる。つまり、今から始めれば、現状が崩れる過渡期にぶつけることができる、と。
それまで、ある程度の批判を受けることは覚悟していた。時代遅れ、流行遅れと言われるであろうことは。
とにもかくにも、待つしかないと思っていたのだが‥‥‥ やっぱり、待っていて正解だったな、というのが私の結論である。
というわけで、冒頭に戻る。
業界を代表するプロダクションの附属養成所が、発声・滑舌のための1年をつくるということは、プロダクションの方向転換を示す。
この現象は、あと3年以内に業界を席巻するだろう。2001年度は1社だが、2002年度はあと2社は後追いをする。2003年度になれば、業界全体が雪崩を打つことは間違いない。
これは、アイドル声優、タレント声優が消滅するということではない。
ビジネスとして、アイドル声優・タレント声優という分野はこれから先も確実に残る。なんてったって、ショーバイ的にオイシイからね。しかし、次に90年代ほどのアイドル声優ブームが起こるのは、10年近く先になるだろう。
21世紀からは、間違いなく実力派が復権する。声優=俳優の時代が繰り返される。
そして、時代は、実力派とタレント派の共存状態になる。
昔は、ひとつの流行が全てを支配した。
たとえば、ファッションでも、みんなアイビー、みんなコンチ、みんなテクノ、みんなDC‥‥‥という具合に。
声優に近いところで言えば、音楽もそうだ。GS一辺倒、フォーク一辺倒、歌謡曲一辺倒、ニューミュージック一辺倒、アイドルポップス一辺倒、バンド一辺倒‥‥‥
しかし、価値観の多様化が叫ばれた80年代末からは違う。
90年代から、ファッションはなんでもアリアリで、大学の教室など50年代、60年代、70年代がゴチャマゼとなっている。これは音楽も同じだ。ヒットチャートには、ロックあり、ポップスあり、フォークあり‥‥‥
同じことは、声優にも起きる。アイドル声優・タレント声優は、もはや不滅である。しかし、実力派もまた不滅なのだ。
ネットというのはおもしろいもので、実名を出している私の発言も、匿名の正体不明者の発言も、モニターの中では同じように映る。
なによりも、声優志望者である君たちはプレイヤー(実演家)なのであって、評論家ではないことを明確に意識しよう。
誰の言葉を信じ、
どの道を進むかは、
ほかならぬ自分次第だよ。
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